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友人の勧めで文楽を観たことがきっかけで伝統芸能に目覚めました。歌舞伎や能もよく観ます。とりわけ三味線の魅力にとりつかれ長唄を習い始めました。

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能 「生田敦盛」 - 賀茂明神から神戸「生田の森」へ

敦盛を討った熊谷次郎直実はそのことをきっかけに浄土宗開祖たる法然上人に教えを請い、出家し蓮生と名乗った

この蓮生と敦盛の霊が出会うのが能「敦盛」であるが、「生田敦盛」でその法然が若くして戦死した敦盛の子供を拾って育てるところから話が始まる それほど敦盛の話と法然とは縁がある

さて、子供が法然に拾われたのは一乗寺下り松の下と言われるが、これがその松なのか・・・。

IMG_1701_一乗寺下がり松_small
<宮本武蔵が決闘した場所としても有名 当時の松は近所の八大神社にあるとのこと>

拾われた子は後にひょんなことから敦盛の忘れ形見だと知れる。 そしてその子は亡き父に会いたい一心で「賀茂明神」に願をかける

ここでの「賀茂明神」とは上賀茂(賀茂別雷神社)のことなのか、下鴨神社(賀茂御祖神社)のことなのかよく分からないが、法然に縁の黒谷に近いのは下鴨神社だ

IMG_1662_上賀茂神社_small
<上賀茂神社>

IMG_1665_上賀茂神社_small
<境内を流れる清らかな水と萩の花>

広大な「糺の森(ただすのもり)」と立派な境内を見るとなんとなく下鴨神社に願を掛けたような気がしてくる・・・

IMG_1708_下鴨神社_small
<長い長い糺の森を貫く参道を抜けると下鴨神社だ>

すると賀茂明神が敦盛の子の夢に現れ、父が戦死した一の谷に近い「生田の森」に行くように告げる

実際には一の谷から生田神社までは相当な距離があるが、生田の森には平家方の陣があったようで、陣中の父に会いにい行ったのであろう

IMG_1846_生田神社_small IMG_1832_生田神社_small
<神戸三宮駅のすぐ北側にある生田神社。 このすぐ後ろに生田の森がある>

生田神社は縁結びの神様としても知られ、この日も結婚式が行われていた

IMG_1836_生田の森_small IMG_1844_生田の森_small
<ここで敦盛の子は父の霊と暫しの間親子の情愛を交わす>

P1020972_敦盛萩 P1020969_敦盛萩
<生田神社の境内にある「敦盛の萩」>

「青葉の笛」の須磨寺のところでも触れたが、兵庫県、特に、神戸から明石にかけては源氏物語や平家物語など江戸時代よりも遥か昔の日本人の心のふるさとが沢山ある

自分がハマッている文楽、歌舞伎、長唄などは正に「江戸文化」であり、今東京では江戸時代の文化や街並みを辿るのがひとつの流行だ。 NHKの「ブラタモリ」や相次ぐ浮世絵展などが大いに人気を博しているのもそうした背景がある

しかし、そうした文化を知れば知るほど「江戸時代」はついこの前のこと、 自分のこれまでの人生を振り返っても、半世紀ぐらいはあっという間の出来事

「え、それって昭和の唄ですか?」 若い子に遠い目をして言われて愕然とするが、それぐらい月日がたつのは速いものだ

そんな中で三百や四百年ぐらいの時間はそれこそ「邯鄲の夢」のごとく、瞬きする間のことではないか

時代が古くなればなるほど史実かどうか怪しくなってくるのも事実だが、それでも、千年の時を越えて今日まで伝わる様々な物語はそれだけでも古典としての値打ちがあると思う

兵庫には江戸時代には既に古典として人口に広く膾炙した「日本人の心のふるさと」、「本当の歴史」が数多く残されている

敦盛 「青葉の笛」 - 神戸「須磨寺」

平家物語の「敦盛最期」に取材した能には「敦盛」や「生田敦盛」がある

今回は「敦盛」に登場する「青葉の笛」(つまり「小枝(さえだ)」)があるという神戸の須磨寺を訪ねた

IMG_1847_須磨寺本堂_small
<本堂>

寺は一の谷の古戦場がある須磨浦公園の北西にある広大な寺領を擁する立派なお寺で、境内には敦盛首塚や敦盛縁の品々を展示する宝物館がある。 また、写真の本堂に向かって右側の護摩堂は日本最古の「会社」として有名な「金剛組」の施工による増改築工事の真っ最中であった

IMG_1848_須磨寺金剛組_small

さて、宝物館には一の谷合戦を再現した動くジオラマや甲冑などが数多く展示されている

P1020980_敦盛

こちらは「小枝」を陣地に取りに戻ったために遅れた敦盛が、先に出た味方の船を目指して、馬で海に入ったところを背後から熊谷次郎直実が呼止めたシーン

そして右側が敦盛が所持したとされる「青葉の笛」つまり「小枝」とのことである。 変色していて分かりにくいが、ケースの中に縦に二本の笛が収められている。その右側の太いのが「青葉の笛」

IMG_1857_須磨寺青葉の笛_small

さらに境内にはこのような再現シーンも

IMG_1860_敦盛実盛_small

今回は時間がなくて行けなかったが、子供の頃よく遊びに行った須磨浦公園には一の谷の古戦場跡や敦盛塚などがある ⇒ 須磨浦公園の様子はこちらのページから

上のページからひとつだけ写真を拝借させていただくと・・・

摂津名勝図絵_small
<摂津名所図絵に見るかつての須磨浦一帯の様子>

図絵をよく見ると合戦の舞台となった一の谷以外に二の谷、三の谷があることがわかる

今でこそ水際を国道2号線やJR・私鉄が風景を分断してはいるが、公園から海を隔てて淡路島を望む景色は往時を思い起こすに十分な風情だ

近々、小さい頃の思い出もたくさんある須磨浦公園も訪ねてみるつもりでいる

ちななみに須磨寺近くには能「松風」に縁の「松風村雨堂」がある。 それに関する記事はこちらから

京都 南座十月大歌舞伎

京都南座で1年半ぶりに歌舞伎を観た

写真(5)

「矢の根」は富士山を背景にした館の中で、彼のトレードマークである胡蝶の刺繍が美しい色鮮やかな衣裳に身を包んだ曽我五郎時致(橋之助)が様式美溢れる荒事を見せる

そして兄の十郎祐成を父の仇である工藤祐経の許から救い出すために、通りがかりの馬を乱暴に奪い取り、何故か馬の荷であった大根を片手に高く捧げて見得を決める

まあそれだけのことなのだが、橋之助の堂々たる時致が色彩豊かな舞台と衣裳で所狭しと荒々しく舞う姿は、まるで三次元の錦絵をみるようで、それだけで気持がスカッとする

また二挺二枚の大薩摩は鳥羽屋里長(とばやりちょう)だった!長唄好きとしては初めてのナマ里長に大いに感激した

写真(6)
<左上でボートのオールのように見える大きな矢を持っているのが五郎時致(橋之助)>

続く「墨染念仏聖(すみぞめのねんぶつひじり)法然上人譚」は浄土宗の開祖、法然の800年忌を記念して、彼の偉業をたたえる新作歌舞伎である

大伽藍の太い柱を思わせる円柱6本だけの幻想的で抽象的なオブジェを、舞台の奥行をフルに活かして配してある

それ以外は漆黒の背景である

そこに法然の弟子である源智上人と彼が法然の死後に作ったとされる阿弥陀如来立像が空中に現れる

この後、法然に導きを請うた熊谷次郎直実(橋之助:無冠の大夫、平敦盛の首と偽って実は自分の子供を殺したことがきっかけで出家して蓮生と名乗る→能「敦盛」)や法然にほのかな恋慕の気持ちをいだく薄幸の式子内親王(しょくしないしんのう:壱太郎)が登場する

そして最後には配流の決定が九条兼実によってもたらせるも、法然は動ずることなく念仏を唱えることの大切さを諸国に広めることが自分の本望と堂々と運命を受け入れる

藤十郎の法然は余りにも適役で抑制の効いた演技がリアルな法然を彷彿とさせる

橋之助の熊谷も一の谷での敦盛との出会いを回想する場面での流れるような所作が美しい。冒頭の時致の荒事もそうであるが、まさに脂がのった演技と感じた

壱太郎の式子内親王も美しい 裾の長い着物を上手に操りながらしなやかな所作が初々しく思わずうっとりしてしまう

6月の鑑賞教室で静御前をやったときも同じような感覚に捉われたことを思い出した

ちなみに式子内親王は能「定家」でもみられるように歌人の定家との禁断の恋が有名だが、一説によると法然とも
親しく文を交わしていたことが分かり、法然にも想いを寄せていたではないかといわれている、らしい

藤十郎、翫雀、壱太郎の親子三代に橋之助が加わる舞台では、花柳寿輔が振付ける華麗な舞を楽しむことができた

しかし、唯一、義太夫や囃子がPAを通じた大音響の録音再生であったことが非常に残念であった

そして、最後は翫雀・壱太郎親子による「連獅子」だ

七挺七枚の豪華な長唄囃子連中が舞台中央から左右にひろがり、背景は能舞台を形どった「松羽目」物の基本形だ

唄方・三味線ともに若手が多く、特に唄は全員で唄う際のデコボコ感がちょっと気になった

もう後は翫雀、壱太郎がトップスピードでの連獅子の舞だから、敢えて何もいう必要はない

絢爛豪華な衣装に身をつつんだ親子獅子が七挺七枚+6人の囃子から繰り出される厚い演奏に合わせて親子ならでは息の合った獅子舞を見せてくれた

終わってみれば矢の根から連獅子までおおむね長唄系をベースとする舞踊劇で、そう考えると自分の好みにはぴったりだった。法然の話はもう少し「お芝居」かと思っていたので少し期待とは違っていたが、前衛的な舞台演出は仏教世界の精神性の表現としては適切だったと思う

橋之助の時致・熊谷、壱太郎の式子内親王と子獅子、それに里長の大薩摩 これらが観られただけでとても充実した京都での観劇であった

つい先月、京都を歩いた際に、折りしも法然上人800回大遠忌の法要準備に忙しい浄土宗総本山「知恩院」を訪ねた

IMG_1499_知恩院御影堂_small
<御影堂では信者による詠唱大会が開催されていた>

法然上人のお芝居は知恩院門跡、伊藤唯眞門主が監修されている

さて舞台が跳ねた後、新幹線の京都駅構内で思ったより時間があったので迷わずこれを頂いた!

写真(8)

でも、本当は南座に隣接する松葉本店で食べたかった。いつも思うが本店で頂く方がやはり美味しい気がする

「浄瑠璃姫物語」 by 上原まり&桐竹勘十郎

上原まりの琵琶と語り、桐竹勘十郎の人形による「浄瑠璃姫物語」を横浜能楽堂で観た

浄瑠璃姫物語

「浄瑠璃」とは義太夫節や常磐津節、あるいは清元といった語り物芸能の総称であり、浄瑠璃(義太夫節)に合わせて舞台で人形が演技をするのが「人形浄瑠璃」である

大阪で最後まで残った文楽座にちなんで、今日では人形浄瑠璃のことを「文楽」と呼んでいる

では何故こうした語り物のことを「浄瑠璃」と呼ぶのか?

実はそのルーツが今回観る機会を得た「浄瑠璃姫物語」にあるからだ

浄瑠璃姫物語、あるいは浄瑠璃御前物語は三味線が登場する以前の15世紀半ば(室町時代初期)において琵琶法師が語る物語のひとつであった

三河の国の国司、兼高と矢矧の長者(遊君)には子供がなかなか生まれなかったので、長者が薬師如来に熱心にお願いをしたところ、玉のように美しい娘を授り、夢枕に立った薬師如来の仰せに従い、浄瑠璃姫と名付けた

しばらくして姫も年頃になったある日、鞍馬寺を出奔し源氏再興を期して奥州に向かう途中の牛若丸が矢矧に差し掛かった際に美しい姫にひとめ惚れ、一夜の契りを交わす

翌日、再会を約して牛若丸は奥州に向けて発つが、途中、流行り病に倒れ、ある浜辺で動けなくなってしまう
そこに牛若丸からの手紙を見た浄瑠璃姫が駆けつけ、息絶えた牛若を蘇生させる

元気を取り戻した牛若丸は浄瑠璃姫の懇請を振り切り、改めて奥州をめざすが、今度は母である常盤御前の形見の笛を姫に託し、平家を討ったあかつきには必ず矢矧に戻ると約束する

しかし、待てど暮らせど牛若丸(既に義経)からは何の音沙汰もないことに絶望した姫は自害するが、その直後に義経が姫の墓に参ると、瑠璃色の蝶が舞い上がり、それに導かれるように平家打倒のために都へと向かうのだった・・・・・

上原まりが奏でる琵琶は情感溢れる音色で、哀愁にみちた響きが素晴らしい。 また宝塚の元トップスターらしく、歌唱的なパートと台詞的パート、加えて物語の解説的パートを起伏と張りのある声で上手く語り分けていた

勘十郎の遣う浄瑠璃姫は彼の師である吉田蓑助仕込みの艶やかな娘ぶりが際立ち、圧倒的な存在感があった

普通なら見ることのできない琵琶を伴奏とする「語り」(正にこれこそが”元祖浄瑠璃”)を復曲する試みと、それに、後の江戸時代に完成された三人遣いによる洗練された表現力を備えた人形による演技を組み合わせることで、当時も徐々に行われ始めていた、”浄瑠璃(語り)”と”人形芝居”の組み合わせを今日的な形で観せていただけたことは大きな収穫であった

一方、能楽堂という本来文楽人形を遣うには制約の多い舞台での、限られた数のスタッフでの演出に物足りなさが残ったことと、恐らくオリジナルに忠実な復曲が困難であったであろう浄瑠璃物語を現代の観衆にも理解し易いようにと、現代語を多用した台本となったことが相俟って、やや厳しく言えば「子供向け」っぽい印象を受けた

上原の琵琶や物語、勘十郎の繊細な浄瑠璃姫、個々の芸としては当代随一の完成度の高いパフォーマンスであるだけに、全体としての物足りなさが少し残念であった

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<能舞台の右手前に上原まりが座り、橋掛かりや右奥の切戸口の前に立てられた「パーティション?」の後ろから人形が出入りするが、文楽につきもののいわゆる手すりがないために、人形遣いの足元まで見えることになる>

さて、そもそも言葉としての「浄瑠璃」とは何か?

矢矧の長者が願を掛けたという「薬師如来」は「東方浄瑠璃世界」に住み、現世の苦しみを除く仏であり、一方阿弥陀如来は「西方極楽浄土」の教主である

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<京都 浄瑠璃寺本堂 この中に国宝である九体の阿弥陀如来が列座する 外から直接は仏さまの顔は見えないが、ライティングが充実していると、手前の池に逆さまに顔が映し出されることになる>

本堂に九体の阿弥陀如来像が列座することで有名な京都府南部にある浄瑠璃寺(昨年9月に訪れた)では、池を挟んで東岸(此岸、しがん=現世)の三重塔に薬師如来が、西岸(彼岸、ひがん=来世)の本堂に九体の阿弥陀如来が安置されている

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<浄瑠璃寺三重塔 こちらの本尊が薬師如来>

薬師如来は手にされている薬壷にも象徴されるように、現世での苦しみから衆生を救うと共に、此岸から西方浄土たる彼岸へ送り出してくださるという存在のようである

その薬師如来が住まわれる世界が「浄瑠璃界」と呼ばれる世界である

浄瑠璃の「瑠璃」とは lapis lazuli (ラピスラズリ)という鉱石から作られる、鮮やかな青、ウルトラマリンのことで、「るり」という音はこのラテン語から梵語などを経由して入ってきたのかもしれない・・・。 (Lapis は石、Lazuliはもとペルシャ語で瑠璃の石を産した地名が語源)

LapisLazuli.jpg
<この写真はWIKIの瑠璃色の項から転用>

lazuliという言葉がイタリア語やフランス語に入った際には最初の「L」は”冠詞”だと解釈されたために、わざわざ「L」をとって、フランス語では azur、イタリア語では azzurro が青を表す語となったようだ

フランス南部の Cote d'Azur はそういうことで紺碧の海岸という意味だ

ということは薬師如来の世界である浄瑠璃界は紺碧の光に満ち溢れた、明るい現世という意味なのであろうか

今回の公演は今日私たちが見ている文楽や歌舞伎に出てくる義太夫節や常磐津、清元といった「物語り音楽」のルーツたる浄瑠璃姫物語の片鱗を、上原まりと勘十郎の意欲的な取組みを通じて垣間見ることができたことが大きな収穫であった

能 「松風」 と 須磨 「松風村雨堂」

長唄舞踊「汐汲」のもとになった能「松風」を観た

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10月公演のプログラムにある井上愛氏の解説によれば「松風」はもともと田楽の亀阿弥(きあみ)作曲の「汐汲」を観阿弥・世阿弥が改作したもので、原曲名は「松風村雨」とあり、元はちゃんと姉妹両方の名前が題名になっていたようだ

国立能楽堂10月_解説_small

上の10月主催公演のチラシの裏にも簡単なあらすじが出ているが、伊勢物語の主人公に擬せられる在原業平の兄である行平が、須磨に詫び住まいしていた折に寵愛した松風と村雨という海士の姉妹の話で、都に去った行平が

「立ち別れ いなばの山の 峰に生うる 松(待つ)としきかば 今帰り来ん」

と詠んだにも拘らず、終に帰らぬ人となってしまったことを嘆きながら、それでも忘れられない恋慕の思いを語り舞うという曲だ

シテの松風とツレの村雨の美しい姉妹がそれぞれに行平の思い出を語るところの詞章が美しく、シテ・ツレが一緒に謡うところがとても「上手(平板な表現だが)」でうっとりさせられる

また、二人は薄いベージュの水衣(作業着)を着て、扇で汐を桶に汲み入れたり、その桶を汐汲車に乗せて曳くところやそれらの桶に月が映りこむさまを愛でる所作が美しい

そして思い出を語ってるうちに、松風の方がつのる想いを抑えきれずに、舞台におかれた松の作り物が「行平」だと言い張ってそれに寄り添おうとするのを妹の村雨が止めるシーンや、松風が行平形見の烏帽子や狩衣を抱きしめ、ついにはそれを着て恋慕の舞を舞いながら、その松を両手を大きく広げて抱きかかえるようにするさまは感動的であり哀れを誘う

都人からは「隅(すみ=すま)」として、遠く離れた荒れ果てた鄙の地と思われていた須磨の地に流離した貴人が、現地の女性らと交わり、そして別離するという話は源氏物語における光源氏と「明石の上」との情交の物語を背後に踏まえていると、前出の井上愛氏は説明しておられるが、まさしくそうであろう

より後世の長唄・常磐津舞踊としての「汐汲」はもっと華やかで美しく脚色してあるが、それが下敷きとした本曲や、されにそれが取材した和歌の世界や源氏物語にまで思いを馳せると、さらにその味わいが深くなる

さて、先日、敦盛の青葉の笛を求めて須磨寺を訪ねた際に、近くの「松風村雨堂」に立ち寄った

IMG_1870_松風村雨堂_small IMG_1882_松風村雨堂歌碑_small
<右は「立ち別れ ・・松とし聞かば 今帰り来ん」の歌碑>

IMG_1877_松風村雨堂_small IMG_1868_松風堂周辺の道_small

姉妹は実在ではないとされるので、松風村雨堂や形見の衣をかけた松の木の真偽のほどは分からない

しかし右の写真のように 周辺は見てのとおりの松並木が美しい坂

これを下りていくと須磨浦に出て、明石海峡を隔ててすぐ目の前に淡路島を望む風光明媚な土地柄だ

辺鄙なところと思われていた一方で風雅を愛する都人にとってはさぞや詩興をそそられる美しい土地であったことだろう


京都 「妙満寺」 道成寺の鐘を追って

洛北の妙満寺を訪ねた

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室町時代の開創で天正11年(1583年)から昭和までは寺町二条にあったが、昭和43年に現在の左京区岩倉に移ってきた日蓮宗妙満寺派の本山だ

筆者がわざわざこの妙満寺を訪れたのは何故か?

下の左の写真は今年5月に訪ねた紀州「道成寺」の二代目の鐘楼跡だ

二代目鐘楼跡_small

初代の鐘楼は蛇に姿を変えた清姫が安珍もろとも焼き尽くしてしまい、その400年後に鋳造された二代目は能や歌舞伎の道成寺物によれば、今度は清姫の霊である白拍子「花子」に奪われてしまったことになっているが・・・

鐘楼跡に立つ高札をよく読むと・・・・

二代目鐘楼跡解説_small

なんと二代目の鐘は京都の妙満寺という寺にあると書いてあるではないか!

こうなると長唄の名曲中の名曲とされる「京鹿子娘道成寺」や玉三郎、菊之助による艶やかな舞踊「娘二人道成寺」に魅せらて、遥々道成寺を訪ねた筆者としては、なんとしてもこの鐘の在り処を確かめなければ気が済まなかった

その日直前に訪れた「北野天満宮」に長居してしまったため、妙満寺への到着が5時になってしまった。すると折しも「入相の鐘(いりあいのかね)」が鳴り始めた

IMG_1728_妙満寺鐘楼_small

すわ、これこそが道成寺の鐘と決めつけ、ジッと撞木を握る修行僧を見つめていたが、撞き終わった彼に聞くと、今撞いていたのは本来の妙満寺の鐘とのこと

ちょっとがっかりしたが、ミーハーを承知で、じゃあ「道成寺の鐘はいったいどこに?」と彼に詰め寄った

すると「あ、それなら「方丈」内に展示してありますが、もう今日は五時を回ったので閉館しました」とのこと

しまった、勘違いして鐘が鳴り終わるのを見てるうちに閉館してしまったのだ・・・

でもそんなことで諦められる道理はない

翌日、予定を変更して、大原三千院に向う前に再び妙満寺を訪れ(殆ど妄執の世界)、清姫の霊が呪い落とした鐘を遂に見ることができた

IMG_1746_妙満寺道成寺鐘_small IMG_1748_妙満寺道成寺鐘_small

まあ、ご覧のとおりかなり小ぶりの鐘で、確かに道成寺の裏山にうち捨てられていたかもしれないが、本当に二代目の鐘として使われるはずのものだったかどうか・・・

まあそんなことはともかく、本当に妙満寺に道成寺の鐘はあった、ということだけで十分だ

さて、この妙満寺には俳句の祖と仰がれる松永貞徳が造営したとされる「雪の庭」と呼ばれる見事な枯山水の庭園がある

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そして、境内からの比叡山の眺めが素晴らしい

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長唄、能、舞踊の道成寺ものに惹かれて、5月に和歌山まで行った。すると、安珍・清姫の物語を書いた「道成寺縁起絵巻」の現物は東京で開催中の白洲正子展に出品中とのこと。そして、鐘は京都にあるという。

東京に戻って白洲展に行ったら、平等院の雲中供養菩薩に出会い、今回の京都ではまず平等院に。そしてこの妙満寺の鐘も見ることができた

今回の旅は昨年他界した母の菩提を弔う意味もあり、浄土(真)宗、ゆかりの寺を訪ねることもひとつの目的だった

おりから法然の800年大遠忌、親鸞の750年大遠忌にあたるため、東・西本願寺や知恩院はイベント色に染まっていたが、
この妙満寺は日蓮宗系だがこちらも開祖の700年忌に当るそうだ

今月、京都南座では法然を描いた新作歌舞伎もかかっている 10月25日からは国立博物館で法然・親鸞展も開かれる

ほんのちょっと日本の伝統芸能や古典文学に向けただけで、こうもリンクが果てしなく続いていくとは、やはり日本の歴史の深さ、文化の豊かさはタダものではない!

京都 宇治「平等院」&「宇治上神社」

傘寿を超えても矍鑠としている父親と、この秋京都の古刹を巡る旅に出た

と、言うと人からは「それはそれは親孝行な」とお褒めの言葉をいただくが、実のところは歴史に造詣の深い父に、自分の史跡巡りに付き合ってもらったというのが正直なところだ

今回の京都旅行はまず宇治「平等院」からと決めていた

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<鳳凰堂>

京都は何度も訪れているが、、少し離れた宇治には行く機会がなかったということもあるが、それ以上に今年5月に世田谷美術館で開かれた「白洲正子展」で見た「雲中供養菩薩像」の全貌を是非見たいという思いもあった

白洲展で見たのは、全部で52体ある雲中菩薩の内、便宜的に北1号と呼ばれている一体であったが、これがなんとも愛らしい。孫悟空の觔斗雲(きんとうん)のような雲に乗りながら琴に似た楽器を楽しげに弾いている姿が印象的だった

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<北一号 白洲正子展図録から接写>

ぜひ残りの51体も見たいではないか!

平等院は関白藤原頼通によって1052年に創建されたが、写真の鳳凰堂(阿弥陀堂)は翌年の建立である

1052年は釈迦入滅後2000年目に当り、世の中が乱れるとされた末法の世の元年とされていた

摂関家の頂点、藤原氏の大官は末法の世の苦しみを避けて、なんとか極楽浄土へ往生がしたい、だからそれに向けての準備を大急ぎで整えたのであろう

IMG_1355_平等院2_small P1020929_平等院_small

本尊である金色の阿弥陀如来像(国宝)は慈悲にみちたお顔だ。左右の壁の長押の上の白壁に、あの雲中供養菩薩26体が阿弥陀様を取り囲んでいる

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<平等院参拝のしおりから接写>

下の壁(扉)には今でははっきりとは見えにくくなっているが、いわゆる来迎図が様々なパターンで描かれている

いずれも大きな阿弥陀様を中心に大勢の菩薩様が団体旅行よろしく、雲に乗って笛や太鼓の鳴り物入りでまさに今、亡くなろうとする人を空から迎えにくる図だ

当時の人たちは信心することで、念仏を唱えることで、慈悲に満ちた阿弥陀様ご一行に西方浄土へと迎えに来てもらうことを夢見ていたことがよく分かる

平等院の主要な宝物は2001年に完成した鳳翔館に収蔵されている。鳳凰堂の名前の元になった阿弥陀堂の屋根の一対の鳳凰(国宝)も現物は鳳翔館で見ることができる

雲中供養菩薩の残りの26体も鳳翔館で一覧することができるのだ (以下は鳳翔館で買った絵葉書を接写)

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さて、平等院と言えば思い出されるのが平家物語の「橋合戦」

以仁王と源頼政(源三位頼政)が、打倒平家をもくろんで挙兵したのは、平等院の建立から130年ほど後の1180年だ

1167年に平清盛が太政大臣となり「平家にあらずんば人にあらず」という風潮が世を覆っていた

そんな中、鹿ケ谷の陰謀(1177年)が露呈して、俊寛らが南海の孤島、鬼界が島に流される事件から3年後に後白河法皇の三男であった以仁王をかついで、頼政らが立ち上がった

(俊寛だけが流刑を解かれずに島に残される話は巻第三の「足摺」の段。ここから有名な能や歌舞伎の「俊寛」が生まれた)

平家物語の巻第四の「源氏揃え」から、「山門牒状」、「南都牒状」などを経て「橋合戦」「宮御最期」、そして「三井寺(園城寺)炎上」までの各段は以仁王の乱について緊迫した筆致で書き記している

最初、叡山の琵琶湖側の麓の「寺門」派、園城寺たのんだ頼政らであったが、なかなか南都(奈良の興福寺)が牒状に応じて挙兵しないことに業を煮やして、園城寺を出て奈良に向かうことにした

しかし途中、以仁王が何度も落馬する疲労困憊ぶりで、やむなく、途中の平等院に入ることになった

そこへ追いついた平家軍との間での激しい合戦を描いたのが「橋合戦」である

頼政らは宇治川に架かる橋の板をはずしてしまったので、流れの急な宇治川を挟んでしばらくは弓矢の射掛け合いで戦況は膠着していたが、最後には勇猛な平家方の武将が馬で渡河することに成功し戦況は一変、頼政や以仁王は失意の中で不本意な死を遂げるのであった

しかし、この時に発せられた平家打倒の令旨を奉じて全国の源氏が蜂起、後の壇ノ浦での合戦で平家が滅亡するまでの源平の戦いが始まるのであった

IMG_1387_宇治神社前の橋1_small

上の写真は平等院の側から宇治川を渡って対岸の宇治神社及び宇治上神社(後述)に参るための橋なのだが、この橋の真っ直ぐ向こうに鳳凰堂の屋根とよくみると鳳凰が見える

IMG_1390_宇治川の橋_small

さらに、折からの集中豪雨の余波で宇治川が増水しており、この有様。実際にはちょっと近づくのが怖いほどの激流になっていた。さすがにこの日は特別かもしれないが、かくも水量豊かな宇治川を最後は馬で渡河した平家軍は大したものだ

以仁王の挙兵についてはこちらが詳しい)

ところで、実は今回の京都への小旅行の帰り道に京都側から叡山を越えて、琵琶湖の方に出たので、ふと思い立って三井寺を訪れた

不思議な縁で旅の最初が平等院、そして終わりが三井寺と橋合戦にゆかりのある両寺院をめぐったことになった

IMG_1817_園城寺_small IMG_1818_園城寺_small
<三井寺は現在でもこの広大な寺域と多くの堂宇を擁する>

平家物語では園城寺(三井寺)から宇治は三里、12キロとあるが、実際にはその倍ほどの距離があるように思う

以仁王が何度も落馬したのは分かるような気がした

ところで、平等院は仏教寺院だがこれを守る「神様」も宇治にはいらっしゃる

知人からは宇治に行ったら平等院だけでなく、宇治川を挟んだ対岸にある「宇治上神社」も世界遺産であり、素晴らしい気の流れるパワースポットであることを聞いたことも平等院への思いを強くしたした理由のひとつであった

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<宇治上神社は平等院とならんで世界遺産である>

境内には宇治の七名水のひとつである桐原水が湧き出ている

IMG_1378_桐原水_宇治七名水_small

そしてそのような美味しい水で栽培され、淹れられる宇治のお茶が美味しいのは当然とばかりに、宇治神社の参道脇には
「伊右衛門」で知られる京都福寿園の宇治茶工房がある

IMG_1388_宇治神社横福寿園_small

とまあ、語り始めたら止まらない、何かと得るところの多かった初めての平等院参拝であった

文楽 「摂州合邦辻」@10月地方公演(横浜)

文楽地方公演(横浜)で豊竹英大夫(とよたけはなふさたゆう)と鶴澤清介による「摂州合邦辻(せっしゅうがっぽうがつじ)」を観た

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<右下のつんつるてんのオヤジさんが合邦道心、刺されちゃってるのが娘玉手御前>

元々その日は予定が立たずに横浜まで行けないはずだったのだが、前の日に府中での公演を観た「文楽鑑賞の師」である二人の方から(A.I.さんとI.Tさん)から以下のようなメールを頂いてしまった・・・。

「もう、すごいとしか言いようない素晴らしい舞台でした。他の誰のものとも違う英、清介の合邦でした。強いて言うなら、私も聴いた事のない(英さんの)お祖父さんの若大夫を彷彿させるものかもしれません。

そして、清介さんの三味線が、負けず劣らずすごかった。大夫をサポートしながらも誘導し、ぐいぐいと自分のペースに持っていく。

英さんも、清介さんの三味線に応えながら新境地へと到達し、その義太夫を受けて、三味線もさらに輝いていく。これぞ浄瑠璃の醍醐味!

合邦にこんなに三味線の聴き所が溢れていると、今回はじめて気が付きました!

英さんも、Sogagoroさんに是非聴いてもらいたかったようです・・・・。」

もうこうなると見逃す訳にはいかないということで、なんとか予定をやり繰り、あの急な紅葉坂をハアハア言いながら駆け登って会場にたどり着いた

客席に入ってみると立派な定式幕がかかり、上手にはれっきとした床もある。 思っていたより本格的なこしらえだ

若手による団子売では英大夫のお弟子さんの希大夫(のぞみたゆう)がよく通る声で「杵造」をテンポよく語ってくれた

団子売は景事もの、軽妙に明るいのが売り。 まさにうってつけの配役で本公演とは違う希大夫ののびのびとした語りを聞かせていただいた

続く「合邦住家の段」は睦大夫、津駒大夫ときて一番のクライマックスが英大夫と鶴澤清介のコンビだ

「合邦」とは何か、という話は後にして・・・ あらすじとしてはは継母である玉手御前が義理の息子、俊徳丸に道ならぬ恋をしかける

しかも、俊徳丸の許婚である浅香姫と別れさせるために、毒の入った酒を飲まして病にしてしまうのだ
それを苦にした俊徳丸は行方をくらましてしまう  そして継母である玉手もそれを追って家出。

う~ん、相当理解に苦しむ「無理筋の痴話騒ぎ」にしか聞こえない話なのだが・・・

ここから「合邦庵室(がっぽうあんじつ)」とか「合邦住家」と呼ばれる今回の場面だ、実は俊徳丸は浅香姫と共に玉手の父である合邦道心の家にかくまわれている。 合邦の家の外(下手側)には閻魔堂が見える

そこへ玉手が俊徳丸を探してやってくる 主家の若君に不義をしかけた娘の成敗は既に決まったものと百万遍の念仏で弔ったばかりの合邦は玉手を家に入れようとしないが、女房が入れてしまう

俊徳丸に再会した玉手は親の説得も聞かずに俊徳丸への倒錯した恋慕の情を滔々と述べ立てる

ブチ切れた父、合邦はたまりかねて娘玉手を刺す すると玉手は刺した刀を抜かないように頼み、驚愕の話しを始める

大名高安家の跡取り息子の俊徳丸の命を狙う異母弟次郎丸から俊徳丸を守るために、わざと、俊徳丸への恋を語り、毒を盛って醜い姿にした上で一旦は高安家から逃れさせ、

後に寅の年、寅の月、寅の日、寅の刻生まれの女の肝臓の血を飲ませて、元の姿に戻すつもりだった。その生まれの女こそ自分(玉手)だと打ち明けたのだ

それを聞いた合邦はそれまでの悪口雑言を詫びて、旧主への恩を身を挺して報じた娘を褒めるのである

さあ、娘の話を聞いてからの合邦の身をよじるような悔悟の念と、主家の為に自らの風評と命までも犠牲にして俊徳丸を救った娘の忠義に対する賞賛

「オイヤイ、オイヤイ、オイヤイ、オイヤイ、スリヤそちが生まれ月日が妙薬に合ふたゆえ、一旦は病にしてお命助け、また身を捨てて、本復さそうと、それで毒酒を進ぜたな・・・ ヘエ、出かしゃった、出かした、出かしゃった、出かした・・・」

この辺りから英大夫の語りが鬼気迫るものなってくる。思わず合邦の魂が大夫に憑依したかのような、そんな迫真の語りに聞いているこっちも完全に舞台の中に吸い込まれてしまう

そして清介さんの三味線がまた凄い!A.I.さんとI.Tさんがおっしゃっていたように、大夫の迫真の語りをさらに際立たせる鋭く細かく速いフレーズ、それに気合のこもった掛け声。

その三味線に刺激された大夫がさらにトップギアに! 二人が奏でる物語の世界がどんどんと昇華して行き、その中に観客がグイグイと引き寄せられていくのだ

最後は助からぬ玉手を数珠の輪で囲み、一同が南無阿弥陀仏を唱えるなか玉手は息絶えるのである

さて「合邦」とは何か?

先日観た市川亀治郎らによる「小栗判官」もそうであったが、合邦のルーツは「説経節」である

説経節の代表作、「しんとく丸」やそこから生まれた能「弱法師(よろぼし)」などを下敷きにした時代物狂言として、1773年に大阪で初演された

「説経」は仏教の教えを説いて民衆を導く手段のから、鎌倉時代から室町時代にかけて徐々に芸能としての性格を帯びたようである。 後には三味線が入ったり、人形と共に語られるようになったそうで、1600年代半ばに最も流行したものらしく、「説経浄瑠璃」称されたこともあるようだ

ただ、説経である以上宗教的な色合いが強く、より幅の広いテーマを語る義太夫節などの浄瑠璃に圧倒されるようになったが、近世の芸能に与えた影響は大きいものがある

(説経節についてはwikiからの受売り。オリジナルはこちら

小栗判官でも遊行上人、つまり踊り念仏の時宗の開祖、一遍が登場して照手姫の祟りで醜い姿になった小栗を平癒に導くのだが、ここでは玉手の直接には生血が平癒の理由だがその背景には閻魔堂や百万遍の念仏など宗教的な要素が色濃くある

この秋の京都旅行では、空海の真言密教から、法然の浄土宗、そしてさらには親鸞の浄土真宗へと宗教の庶民への広がりというのがテーマのひとつだったのだが、当然と言えば当然のことながら、日本の伝統芸能と仏教文化との深いかかわりをここでも改めて感じることとなった

さて、同じく俊徳丸を扱った能の「弱法師(よろぼし)」はとてもいい曲である

合邦とはちょっと違って、盲目となった俊徳丸が大阪四天王寺で父と再会をはたして、摂州高安に戻っていく話なのだが、四天王寺からみた西の方角、つまり西方浄土に向けての景色が美しく語られる

そして目は見えないがそれがどんなに素晴らしいものであろうか、ということが切々と語られるのだ

淡路島も出てくるし、須磨・明石もでてくる  播磨の産である自分のルーツを美しく謡ってくれる俊徳丸が杖を片手にまさしく「弱々しく」歩み、語る姿が哀れを誘う

一方、過去を詫び、変わり果てた姿の息子をそれでも温かく故郷に迎える父親の気持ちと、素直にそれに応える俊徳丸の姿がジーンとくる素晴らしい曲だ

(弱法師についてはこのページがよい参考になります)

ちなみに、四天王寺の西門は西方浄土の東門と考えられている。

IMG_1964_四天王寺石鳥居_small IMG_1962_四天王寺西大門石鳥居_small

<西門の外の石鳥居のから見た四天王寺> <四天王寺側から西の方角を望む>

この門を出て「逢坂」を西に下ると合邦住家の閻魔堂がある。その裏手のお寺はその名も西方寺。

IMG_1968_閻魔堂_small

閻魔堂の脇の階段の下が「合邦が辻」だそうだ

IMG_1971_合邦辻_small

浄瑠璃や歌舞伎では継母の大胆な行動が物語りに加わるが、根本において俊徳丸の美の世界は変わらない

説経や能といった江戸期よりもさらに古い歴史の重みをもった「合邦」で、英大夫と清介さんが見せてくれた素晴らしい浄瑠璃の世界、これからのお二人の舞台が益々楽しみになってきた

さて、積み残したテーマは国家仏教たる奈良仏教から、最澄・空海によって開かれた天台・真言宗、そして叡山で学んだ僧が仏教の「草の根化」を進めた浄土宗から浄土真宗などへの展開と「念仏」による西方浄土への成仏への憧れの深化。

そうした日本人の宗教観、生死観などと能楽、文楽、歌舞伎などの伝統芸能のテーマとのかかわりをもう少し掘り下げてみたい

その意味で今、京都南座にかかっている法然上人を本当は観てみたい

能 「生田敦盛」 狂言 「墨塗」@国立能楽堂

国立能楽堂の普及公演で能「生田敦盛」と狂言「墨塗」を観た (深谷での「敦盛」よりも先に「生田」の方を先に観ることとなった)
2011_09_国立能楽堂_1

平家物語の章段には名のある平氏の武将の最後を描いたものが多数あるが、そのひとつに「敦盛最期」(巻第九)がある

一ノ谷の合戦で敗色濃厚となった平家の若武者、笛の名手としても知られた美男の公達、平敦盛の首を、源氏の武将である熊谷次郎直実が逡巡の果てに取るという場面だ

この章段を題材にした能としては「敦盛」が有名だが、その敦盛に実は子供があり、その子供が一ノ谷の合戦で戦死した父の亡霊に、賀茂明神の霊験により生田の森(兵庫県神戸市)で出会うという話が「生田敦盛」だ

(あらすじは下の国立能楽堂のちらしの裏面参照。またこちらのページにも詳しい解説がある)

 2011_09_国立能楽堂_2

冒頭で能に造詣が深く「能の歳時記」などの著書のある、詩人の村瀬和子さんによる曲目解説があった

(村瀬さんの写真や別の場での講演の様子などはこちらのページをご覧下さい)

まずはこのお話がとてもよかった

お着物姿で舞台に立たれた村瀬さんは、とても穏やかで品格のある語り口で「敦盛」や「生田敦盛」にまつわるお話をして下さったが、中でも今でも多くの地域で「敦盛さま」という、半ば「敦盛信仰」のようなものがあるというお話はとても興味深かった

その代表例は広島県のある地方では田植えの時に歌われる「田唄」の中に、敦盛やその奥方(実際には敦盛は妻帯していなかった、つまり十代半ばで戦死した敦盛は結婚していなかった)のことを美しく唄ったものが存在していたということだ

現在では残念ながら「田唄」そのもは伝わっておらず、代わりに民謡となって僅かにその片鱗をとどめるものがやはり広島にあり、村瀬さんの解説の途中でそのCDが見所に向けて演奏された

敦盛を討った熊谷直実が法然に帰依して出家したり、敦盛の架空の子供が法然に拾われたりと、何かと敦盛が浄土宗とかかわりが深いことも、敦盛信仰が生まれた要因のひとつではないだろうか

能は子方と敦盛の霊の再会が哀れを誘い、印象深い

さらに「敦盛」と同じくシテは中ノ舞を舞うが、敦盛では一の谷の合戦前夜の宴を懐かしんで舞うのに対して、生田では親子の再会を喜んで舞うことになる

しかし直ぐに閻魔大王から「一瞬、現世に戻ることを許しはしたが、何をぐずぐずしている!」と修羅の道へと再び呼び戻されてしまう

そして、再会を喜ぶのも束の間、親子は再び静かに別れることになる

そんな親子の情と栄華の果てに滅んでいった平家の若き公達の無念とが交錯する、なんとも言えない無常観を感じさせる曲であった

一方、狂言の「墨塗」は大名の愛人が、彼女を残して領国に帰ろうとする男に対して、用意の水を目につけてウソ泣きをして困らせるのだが、太郎冠者の機転でその水を墨に摩り替えると・・・

最期は女も大名も墨で顔を真っ黒にしながら大騒ぎしながら走り去っていく、抱腹絶倒のお話だ

狂言でここまで本当に笑えたのはこれが初めてだったかもしれない

ちなみ、顔に墨を塗るのは「魔よけ」の意味があるとされ、この狂言もそういった意味が込められているものと考えられる、との説明が、先ほどの村瀬さんからあった

近々、神戸の一の谷、鵯越、生田神社などを訪ねてみるつもりだ

こういうのを「謡蹟巡り」と言うらしいが、文楽や歌舞伎などの演目ゆかりの土地を訪ねるのも楽しいものだ

歌舞伎 通し狂言 「當世流小栗判官」

新橋演舞場で今年の芸術祭参加作品でもある通し狂言「當世流小栗判官(とうりゅうおぐりはんがん)」を観た

IMG_1923_小栗判官ポスター_small
<演舞場の入り口にあったポスター>

最高に面白く、楽しく、清々しい舞台だった!!
たっぷり4時間ちょっと、飽きさせることのない密度の高いエンターテインメント

しばらく前に「亀治郎の会」での「葛の葉」でもそう感じたが、亀治郎は確信犯的なエンターテイナーぶりを更に強く感じた

立役、女形、早替わり、どれも完成度高く見せるのだが、そうした個々の芸だけでなく芝居全体の面白さの仕掛けを見通した上での個々の芸のプレゼンテーションだ

それはもちろん説経節に由来する元ネタを浄瑠璃や歌舞伎にかけた近松のオリジナルにもよるだろうし、それを復活させ今回も演出した猿之助や補綴の石川耕士らの手にもよるものであるだろう

しかし演者としての亀治郎自身も単にいくつかの役を上手に演じるだけでなく、最終的な芝居全体に対する緻密な仕掛けを知悉した上での演技ぶりだと感じた

さて、この物語のあらすじ、歴史的背景、歌舞伎の演目としての江戸から明治にかけての流行と衰退、そして市川猿之助による復活上演など説明し始めたら切りがない

加えて、来年には猿之助を襲名する亀治郎及び澤瀉屋一門総出の華やかな舞台についてもこれまた何かと話題の多い公演だ

IMG_1912_新橋演舞場開演前_small
<開演前からこの人だかり>

それでも駆け足で筋を辿ると・・・

室町時代、常陸国を治めていた横山家の中に国を横領しようとする悪人一派があり、彼らはまんまと当主を自害させ、家宝の「勝鬨の轡」を奪い、自害した当主の娘「照手姫(てるてひめ)」(市川笑也)を誘拐する

そこに将軍家の命によって照手姫の許婚となっていた小栗判官(亀治郎)が乗り込んで来る。 小栗は乗馬の名手と知られ、悪者一味は詮議にやって来た小栗に向けて暴れ馬の「鬼鹿毛(おにかげ)」を放って「乗りこなしてみよ」と挑発する

小栗は蹴り殺されるどころか、見事にその馬を手なずけてしまい、自分が乗った鬼鹿毛を小さな碁盤の上に立たせてみたり(「碁盤乗り」)と、曲乗りまで披露。あげくは自分の馬にしてしまう

→ 見どころ① ここでは小栗が所狭しと暴れる馬を、多少のチャリを交えながら徐々に手なずけ、最後は碁盤の上に見事に二本足で立たせて、扇を広げて見得を決めるシーンが見事!!

こうして悪事は露呈したものの、小栗は肝心の照手姫とは生き別れ、家宝の轡も行方が分からない

場面が替わって、一方の照手姫は近江国堅田の猟師、浪七(亀治郎)にかくまわれているが、その妻の兄弟ら(右近、獅童ら)の企みによって照手姫を奪われそうになる。元は常陸の横山家に仕えていた浪七は自分の命と引換えに龍神にすがって照手姫を救い出す

→ 見どころ② ちょっとエグい気もするが、自らの腹を掻っ捌いての龍神への願掛けは鬼気迫る演技

その後、今度は美濃国の青墓宿の長者宅に家宝の轡があると聞いた小栗(亀治郎)がやってきたところ、長者の娘、お駒(亀治郎の二役)が小栗に一目惚れ。轡と引換えに小栗はやむなくお駒と祝言(!?)することに

ところが、長者の家には小萩という下女が居た。これがなんと照手姫の成れの果てであったから話がややこしい。
お駒の母はもとはやはり横山家に仕えた身

最初は小栗がお駒の夫になることを喜んでいたが、自分が乳母として育てた旧主姫の許婚とあっては、わが子お駒と言えども小栗と夫婦にはできない

摺ったり揉んだりの後、結局、お駒は旧主への義理を通す母の手によって、首を刎ねられ小栗と照手は無事再会するが、お駒の小栗への執念は激しく、小栗はお駒の霊に祟られ、醜い顔になり足腰も立たなくなってしまう

→ 見どころ③ ここは怪談風の仕立て 運命に弄ばれたお駒も可愛そうだが、そのわが子の首を刎ねる母の苦衷も哀れ

そんな中で、見初められる小栗(男)と見初めるお駒(女)を巧みに早替わりする亀治郎が素晴らしい。ちょっと暗くなる場面だが、小栗役のときにわざと女形の科を見せたりしてユーモラスな演出も心にくい

降りしきる雪の中、照手姫が曳く車に乗せられて小栗は、祟り病を治すために霊験あらたかな熊野の霊湯に向かう
そこにかつて照手姫を助けた相模の遊行寺(ゆぎょうじ)の遊行上人(片岡愛之助)が現れ、小栗はさっそく霊湯を浴びる

するとたちまち祟り病は平癒、いよいよ常陸の国へ乗り込んで、悪人退治!しかし熊野から常陸は千里の彼方。小栗は熊野権現に願をかけ駿馬を授かる

小栗と照手姫が神馬にまたがり、大空高く飛んで行く

→ 見どころ④ これが冒頭のポスターの写真のシーンだ。熊野権現に授かった神馬は小栗と照手姫を載せて、花道の上を三階席に向けて飛んでいく そこでも亀治郎と笑也は馬から落ちそうになるチャリを入れるのを忘れない
大迫力、サービス満点のクライマックスだった

最後は常陸の華厳の大滝。馬に乗って空からやってきた亀治郎は、家来とともに悪者一味(段四郎、右近ら)を討ち果たして、最後は一門が客席に向かってお礼の挨拶

とまあ、こんなところだ。

小栗判官なんて、と歴史的な価値を余り認めていなかったのだが、それでも「古浄瑠璃」以前の説経節にその源流があり、また、それが親鸞以降、急速に民衆の間に広まった念仏宗教のひとつ、時宗と密接な関係にあること

常陸はもとより、ついこの前訪ねた三井寺(園城寺)近くの堅田や、熊野も舞台となり、各地に小栗縁の史跡があることなど、初めて知ることも多く、ここでも日本文化の奥の深さと幅の広さに改めて感心した

とにかく文句なく楽しめる舞台だ。決して安くはないが是非、いい席を取ってご覧になられることをお勧めする

それから以前親しくお話を聞かせて下さった 片岡松之丞 丈が腰元「お島」の役で渋い演技をみせてくれたのが嬉しかった!

26日千秋楽 新橋演舞場にて

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