fc2ブログ

プロフィール

Sogagoro

Author:Sogagoro
友人の勧めで文楽を観たことがきっかけで伝統芸能に目覚めました。歌舞伎や能もよく観ます。とりわけ三味線の魅力にとりつかれ長唄を習い始めました。

カテゴリ

リンク

最新コメント

月別アーカイブ

最新記事

最新トラックバック

来訪者数

検索フォーム

RSSリンクの表示

ブロとも申請フォーム

QRコード

QR

京都 宇治「平等院」&「宇治上神社」

傘寿を超えても矍鑠としている父親と、この秋京都の古刹を巡る旅に出た

と、言うと人からは「それはそれは親孝行な」とお褒めの言葉をいただくが、実のところは歴史に造詣の深い父に、自分の史跡巡りに付き合ってもらったというのが正直なところだ

今回の京都旅行はまず宇治「平等院」からと決めていた

IMG_1351_平等院_small
<鳳凰堂>

京都は何度も訪れているが、、少し離れた宇治には行く機会がなかったということもあるが、それ以上に今年5月に世田谷美術館で開かれた「白洲正子展」で見た「雲中供養菩薩像」の全貌を是非見たいという思いもあった

白洲展で見たのは、全部で52体ある雲中菩薩の内、便宜的に北1号と呼ばれている一体であったが、これがなんとも愛らしい。孫悟空の觔斗雲(きんとうん)のような雲に乗りながら琴に似た楽器を楽しげに弾いている姿が印象的だった

P1030004.jpg
<北一号 白洲正子展図録から接写>

ぜひ残りの51体も見たいではないか!

平等院は関白藤原頼通によって1052年に創建されたが、写真の鳳凰堂(阿弥陀堂)は翌年の建立である

1052年は釈迦入滅後2000年目に当り、世の中が乱れるとされた末法の世の元年とされていた

摂関家の頂点、藤原氏の大官は末法の世の苦しみを避けて、なんとか極楽浄土へ往生がしたい、だからそれに向けての準備を大急ぎで整えたのであろう

IMG_1355_平等院2_small P1020929_平等院_small

本尊である金色の阿弥陀如来像(国宝)は慈悲にみちたお顔だ。左右の壁の長押の上の白壁に、あの雲中供養菩薩26体が阿弥陀様を取り囲んでいる

P1030003.jpg
<平等院参拝のしおりから接写>

下の壁(扉)には今でははっきりとは見えにくくなっているが、いわゆる来迎図が様々なパターンで描かれている

いずれも大きな阿弥陀様を中心に大勢の菩薩様が団体旅行よろしく、雲に乗って笛や太鼓の鳴り物入りでまさに今、亡くなろうとする人を空から迎えにくる図だ

当時の人たちは信心することで、念仏を唱えることで、慈悲に満ちた阿弥陀様ご一行に西方浄土へと迎えに来てもらうことを夢見ていたことがよく分かる

平等院の主要な宝物は2001年に完成した鳳翔館に収蔵されている。鳳凰堂の名前の元になった阿弥陀堂の屋根の一対の鳳凰(国宝)も現物は鳳翔館で見ることができる

雲中供養菩薩の残りの26体も鳳翔館で一覧することができるのだ (以下は鳳翔館で買った絵葉書を接写)

P1020996.jpg P1030001.jpg P1030002.jpg
P1020997.jpg P1020999.jpg

さて、平等院と言えば思い出されるのが平家物語の「橋合戦」

以仁王と源頼政(源三位頼政)が、打倒平家をもくろんで挙兵したのは、平等院の建立から130年ほど後の1180年だ

1167年に平清盛が太政大臣となり「平家にあらずんば人にあらず」という風潮が世を覆っていた

そんな中、鹿ケ谷の陰謀(1177年)が露呈して、俊寛らが南海の孤島、鬼界が島に流される事件から3年後に後白河法皇の三男であった以仁王をかついで、頼政らが立ち上がった

(俊寛だけが流刑を解かれずに島に残される話は巻第三の「足摺」の段。ここから有名な能や歌舞伎の「俊寛」が生まれた)

平家物語の巻第四の「源氏揃え」から、「山門牒状」、「南都牒状」などを経て「橋合戦」「宮御最期」、そして「三井寺(園城寺)炎上」までの各段は以仁王の乱について緊迫した筆致で書き記している

最初、叡山の琵琶湖側の麓の「寺門」派、園城寺たのんだ頼政らであったが、なかなか南都(奈良の興福寺)が牒状に応じて挙兵しないことに業を煮やして、園城寺を出て奈良に向かうことにした

しかし途中、以仁王が何度も落馬する疲労困憊ぶりで、やむなく、途中の平等院に入ることになった

そこへ追いついた平家軍との間での激しい合戦を描いたのが「橋合戦」である

頼政らは宇治川に架かる橋の板をはずしてしまったので、流れの急な宇治川を挟んでしばらくは弓矢の射掛け合いで戦況は膠着していたが、最後には勇猛な平家方の武将が馬で渡河することに成功し戦況は一変、頼政や以仁王は失意の中で不本意な死を遂げるのであった

しかし、この時に発せられた平家打倒の令旨を奉じて全国の源氏が蜂起、後の壇ノ浦での合戦で平家が滅亡するまでの源平の戦いが始まるのであった

IMG_1387_宇治神社前の橋1_small

上の写真は平等院の側から宇治川を渡って対岸の宇治神社及び宇治上神社(後述)に参るための橋なのだが、この橋の真っ直ぐ向こうに鳳凰堂の屋根とよくみると鳳凰が見える

IMG_1390_宇治川の橋_small

さらに、折からの集中豪雨の余波で宇治川が増水しており、この有様。実際にはちょっと近づくのが怖いほどの激流になっていた。さすがにこの日は特別かもしれないが、かくも水量豊かな宇治川を最後は馬で渡河した平家軍は大したものだ

以仁王の挙兵についてはこちらが詳しい)

ところで、実は今回の京都への小旅行の帰り道に京都側から叡山を越えて、琵琶湖の方に出たので、ふと思い立って三井寺を訪れた

不思議な縁で旅の最初が平等院、そして終わりが三井寺と橋合戦にゆかりのある両寺院をめぐったことになった

IMG_1817_園城寺_small IMG_1818_園城寺_small
<三井寺は現在でもこの広大な寺域と多くの堂宇を擁する>

平家物語では園城寺(三井寺)から宇治は三里、12キロとあるが、実際にはその倍ほどの距離があるように思う

以仁王が何度も落馬したのは分かるような気がした

ところで、平等院は仏教寺院だがこれを守る「神様」も宇治にはいらっしゃる

知人からは宇治に行ったら平等院だけでなく、宇治川を挟んだ対岸にある「宇治上神社」も世界遺産であり、素晴らしい気の流れるパワースポットであることを聞いたことも平等院への思いを強くしたした理由のひとつであった

IMG_1377_宇治上神社_small
<宇治上神社は平等院とならんで世界遺産である>

境内には宇治の七名水のひとつである桐原水が湧き出ている

IMG_1378_桐原水_宇治七名水_small

そしてそのような美味しい水で栽培され、淹れられる宇治のお茶が美味しいのは当然とばかりに、宇治神社の参道脇には
「伊右衛門」で知られる京都福寿園の宇治茶工房がある

IMG_1388_宇治神社横福寿園_small

とまあ、語り始めたら止まらない、何かと得るところの多かった初めての平等院参拝であった
スポンサーサイト



<< 京都 「妙満寺」 道成寺の鐘を追って | ホーム | 文楽 「摂州合邦辻」@10月地方公演(横浜) >>


コメント

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

 BLOG TOP