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友人の勧めで文楽を観たことがきっかけで伝統芸能に目覚めました。歌舞伎や能もよく観ます。とりわけ三味線の魅力にとりつかれ長唄を習い始めました。

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能 「敦盛」@深谷!

深谷市民文化会館で行われた観世流小島英明をシテとする「敦盛」を観た

IMG_small.jpg
<観世喜正の「のうのう能」繋がりで、電車を乗り継いで遥々深谷まで出張りました!>

会場は通常の能舞台ではなく、ローカル自治体の「市民会館」の「小ホール」。板張りの舞台の上に小島が自分の車に積んでもってきたという、何故かグレーのカーペットが3mぐらいの橋懸りと本舞台にに当たる場所に敷いてある

そして60センチほどの高さの「角材」が目付柱とワキ柱の位置に立っている、それだけの拵えだ
背景は体育館の舞台の背景によく掛かっているような真っ黒な幕があるだけで、老松も竹も揚幕も何にもない
しかもカーペットの端が少し波打っていてあまりピシッとキマッていない

これだけ見たときは「しまった!こんなとこまでわざわざ来るんじゃなかった」とちょっと後悔

しかし、実際に始まってみると、小島による丁寧な能の歴史や演目の解説、謡のミニレッスン、囃子方によるそれぞれの楽器の説明と実演に続き、観世善正も登場して例の能装束の着付けの実演解説と充実した前フリだった

IMG_0257.jpg
<写真のような立派なテキストまで付いていた(謡本はもちろん別売り2000円也!>

なぜこうまでして敦盛を観たかったのか!?

平家物語の「敦盛最期」の章段が儚く美しいから、それを幽玄な能にしたらどうなるのか、それを観たかった

シテの敦盛もさることながら、ワキの熊谷次郎直実は一の谷で敦盛の首をとった当の本人
敦盛の霊が熊谷とどう向き合うのか、そして、熊谷がどう敦盛の霊を慰めるのか、それが観たかった

能「敦盛」が後世の人形浄瑠璃や歌舞伎にどういう影響を与えたのか、それを知りたかった

そしてそれは平家物語などの鎌倉・平安時代以前から日本人が育んできた美意識や人生観が、能、文楽、歌舞伎などの現代に繋がる芸能の中に連綿と受け継がれてきており、それが今なお人々の心を打つことに深い感慨を抱くからだ

だからそれらの古典の継承の中間点にある「能」がいかなるものであるか、観てみたくてしょうがないのだ

また、この敦盛もそうだが、先週国立能楽堂で見た「生田敦盛」もやはり浄土宗の開祖、法然上人に非常に関係が深い
敦盛を討ったことがきっかけで熊谷直実は法然上人に出家して「蓮生(れんせい、或いは、れんしょう)法師」となり、法然に帰依する

また生田敦盛でも敦盛の子供は法然に拾われ、後に生田の森で父、敦盛の霊に再会するのである

法然、親鸞とつづく浄土宗の流れを知ることも、現代につながる日本人の精神風土を探る上でも重要な研究課題だと思っている

さて、肝心の舞台だが、冒頭に書いたような急ごしらえの舞台ではあったが、シテとワキの関係が分かりやすく、しかも、草刈男が3人も出てきて動きがあり、アイの解説も懇切丁寧で、非常に分かり易い曲であることに加え、前段で隅々まで解説してもらっていたので、とても入って行き易い演能であった

敦盛の霊の装束も片(肩?)脱ぎになっているので、中に着ている着物(厚板)と外の羽織もの(長絹)の色合い、模様の対比が美しかった

長身の小島の中之舞の前段では平家の公達の優雅なものから、突如、一の谷の合戦の鬼気迫るものへの変わるところ、そして最期、蓮生法師に回向を頼むと、刀を投げ捨てて去っていく、その序破急の妙が印象深かった

囃子連中はやや若さが目立ち、「枯れた」味がなかったのが残念だが、地謡の通奏低音的な響きはとても良かった

トータルとしてみればこれまでに観た能の中では一番積極的に楽しむことができた曲、演能であったと思う

さて、ここで少し深谷のことを紹介しよう。JR深谷駅はなんと↓こんなに立派な駅舎を構えている!!

深谷駅1_small

そして、会場となった深谷文化会館は深谷城址公園のすぐ裏手にある(ほぼ一体となっている)

深谷城址_small 深谷市民文化会館_small

深谷の少し手前が蓮生法師、つまり、熊谷直実の生まれた「熊谷」であり、駅前には直実の騎馬像があるそうな

そして、10月8日からはいよいよシネマ歌舞伎で中村吉右衛門の「熊谷陣屋」が始まるよ~!

とにかく、遥々と深谷まで片道1時間半かけて行った甲斐を大いにあり、大満足の半日だった!!

(冒頭の小島による解説には、テキストにはないたくさんの話があったので、で以下備忘のために書き留める)

- 江戸幕府によって武家の式楽と定められた「猿楽(能楽)」は大いに栄えたが、明治維新によって武家社会が崩壊すると共に衰退した

- 岩倉具視は新政府使節団として欧米を視察した際に、列強各国が自国の文化の保護政策をとっていることに感銘を受け、帰国後方々に散らばっていた能楽師を集めて展覧能を催して、能楽の再興と保護を図った

- ちなみにこの使節団には深谷市出身の澁澤栄一翁も参加したとのこと

- 能は能面、文楽は人形、歌舞伎は化粧によって生身の人間をさらさないで舞台に上がる

- 幸若舞は現在ではほとんど衰退してしまっているが、信長が舞ったとされる「敦盛」は能の仕舞ではなく本当は幸若舞であった。現在では8曲程度が九州に伝わるがその中に敦盛は含まれない。しかし、2008年に幸若舞の敦盛が復元された

- 幸若舞が廃れた理由のひとつは、それが一子相伝を旨としたからとのこと

- 能管の中にはノドと言われるもうひとつの竹の筒が入っていて、それが西洋音階にはない独特の音階を作り出している

- 大鼓の皮は使用前に2時間ほど乾燥させたりするので、10数回使うとダメになる

- 雛飾りの五人囃子は左から太鼓、大鼓、小鼓、笛、そして扇を持った能楽師の順にならんでいる これは能舞台上の囃子の並び方と一致

- 敦盛が持っていたとされる笛は「小枝」とされるが、これを観世流では「さえだ」と読み、宝生と金春では「こえだ」と読む
ちなみに森永製菓の「小枝」も観世流の小島は「さえだ、下さい」と言って買うそうだ(笑)

- 一方、能「敦盛」では最初に草刈男が出てきて笛を吹くために「青葉の笛」と呼ばれている。従って、須磨寺に伝わるのは青葉の笛と呼ばれている

- 観世喜之が澁澤翁の末裔とつながりがあったが故、深谷で代々お能のお稽古が開かれてきていた

- そして喜之の弟子である小島英明が深谷での縁をつなぐことになった

- 小島英明の妻は斎藤別当実盛の末裔とのこと。斎藤実盛は源義賢の子、駒王丸を逃がした。駒王丸は後の木曾義仲。
実盛はその後、平家に仕えたため、最期は義仲勢に討たれてしまう

- 武士がつける烏帽子は、向かって左に折れているのは平家、右に折れているのは源氏だそうな

それにしてもいろいろ勉強になった。Suicaを使って、グリーン車に乗る方法も学んだし!

最期に小島英明はなかなか好感の持てるいい男だ。話し方に屈託がなく飾らない素な感じがとても気に入った。
これからも機会があれば彼の舞台を観てみたいものだ
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