矢来の能楽堂で定期的に開かれている「のうのう能」(Know-Noh)の第26回公演で「葵上」を観た

観世喜正による演目の解説に続いて、舞台の上でシテの能装束の着付けの様子まで見ることができる。
その後いよいよ シテ(六条御息所) 古川 充 による「葵上」が始まった

もともと自分が能を見る目的は文楽や歌舞伎という江戸時代に開花した伝統舞台芸能のルーツを探ることにある
さらには「能」という芸能自体が、古くは奈良時代の「記紀」に始まり、「伊勢物語」「源氏物語」「平家物語」など、既にその時点で人々の間で「古典の名作」として広く膾炙していた物語から題材の多くを得ていたということに、日本文化の連綿たる継承の奥の深さを感じるのである
曲目の良し悪し、演能自体の出来不出来についてはまだよく分からないことが多いが、「葵上」はワキ、ツレなど登場人物も多く、テンポもいい。しかもストーリーはオリジナルの源氏物語の葵の帖にほぼ忠実だから分かり易い
その意味ではとっつき易い曲目には違いないが、このたびの舞台はどうだったのだろうか・・。
まず囃子方の大鼓の掛け声がガラガラ。鼓の音も粗野だ。笛も期待される清明な響きに欠けたような気がする
長唄の演奏会、歌舞伎舞踊の伴奏、あるいは黒御簾音楽における囃子の大切さ、そこだけは最近少し分別がついてきた
それだけに、具体的な演出や音曲を取り入れない能の舞台において、囃子のもつ意味は歌舞伎や長唄などにおけるものより遥かに重要な要素ではないだろうか
ワキの横川の小聖も「何が」というのはよく分からないが、御息所の生霊たるシテに向かうには、余りにも「生臭い」所作が全体の幽玄さを少なからず減じてしまっていたような気がした
ところで、今回ののうのう能での一番の収穫は観世喜正による「謡い」のワンポイントお稽古だった

<装束の解説も丁寧だ>
ツレ 「思い知らずや」 シテ 「思い知れ」 上歌地謡 「恨めしの心や・・・ 水暗き澤べの蛍の影よりも光る君と契らん」
のほんの短い部分だが、喜正がそれまで使っていたマイクをオフにして本来の地声でお手本を謡う。その声を聴いただけで、圧倒的声量と節付け(?)の見事さに聞きほれる
その後、見所の観客が喜正に続いて声を出す。最初は皆、遠慮がちだったたが最後はいい声が出ていた
自分も初めての謡いの体験に最初は戸惑ったが、声を出してみるうちに「あ、この発声や節付けは長唄に繋がるものがある!」と(勝手に)直感した。そう思った瞬間、もっとしっかり姿勢を正して声を出してみた
するとどうだろう、とてもすがすがしいよい気持ちになった。詞章そのものは恨み節だが、喜正の節つけを真似て謡ってみると本当に気持ちのよいものだった
いつか謡曲も習ってみたいと思える体験が出来ただけでも、今回ののうのう能は本当にいい体験だった
スポンサーサイト
コメントの投稿