水道橋にある宝生能楽堂で「井筒」を見た
シテ 武田志房 ワキ 福王和幸 アイ 高澤祐介
小鼓 幸清次郎 大鼓 亀井広忠 笛 一噌隆之 地謡 観世喜正他
宝生能楽堂は初めてだったがとても広々としていて全体に余裕のある造りの能舞台が美しい
矢来能楽堂のイメージがあったので快適な空間に驚いた
もちろん矢来の雰囲気も大好きなのだが、ゆったりとした宝生もなかなかいいかなと

今回は観世喜正が主宰する「のうのう能(Know-Noh)」のちょっと上級版(と、喜正氏自身が説明していた)の「のうのう能+」の公演として行われた
最初に法政大学能楽研究所の所長になられた山中玲子教授が「井筒」について概ね30分程度に亘って説明して下さった
曰く・・・
能の曲には源氏物語を題材にしたいわゆる「源氏能」という分野があるが、一方で伊勢能(という用語なないが)とも呼ぶべき伊勢物語に取材した曲がいくつか存在する。「井筒」はもちろん有名な「杜若」や「小塩」、「隅田川」、「雲林院」、狂言「業平餅」などがそれに当たる
時代的には伊勢の方が早く、世阿弥の父、観阿弥の時代から既に存在していたが、源氏能は世阿弥の娘婿、金春禅竹の時代にできたものが多い
『伊勢能』は実は伊勢物語のそものではなくて、その「解説本」に取材されたものである
源氏能ではシテはワキの僧に成仏しきれないでいる自分の霊を弔って欲しい、的なニュアンスがあるが、伊勢能ではシテは業平との思い出や執着を切々と吐露するものの、決してそれを救って欲しい、あるいは、弔ってくれてありがとう、的なワキとのコミュニケーションはない
こうした中にあって「井筒」は世阿弥自身が最高の出来、つまり「上花」と自賛する自信作
それは単に伊勢物語の裏に隠された秘話を披露するにとどまらず、業平への並々ならぬ思いと、激しい嫉妬心すら超越し、ひたすらに待ち続けることのできる女心の内省を伝えることに成功した作品だからだ、と山中先生は締めくくられた
先生は自分とほぼ同世代で 「ああ、この人は本当に日本の古典文学や芸能のことが好きで、熱心に研究してるんだな」という感じがひしひしと伝わってくる語り口でとても好感が持てた
また先生が触れられた「杜若」は伊勢物語のいわゆる「東くだり」あるいは「八橋」と称される第9段に取材された作品であるが、カキツバタと言えば、つい先日青山の根津美術館で観た
光琳の「燕子花図屏風」や同じく「八ツ橋図屏風」(メトロポリタン)を思い出し、
さらには歌舞伎「籠釣瓶花街酔醒(かごつるべさとのえいざめ)」に登場する花魁「八ツ橋」を思い出す
花魁の八ツ橋を思い出すと今度は歌舞伎役者、片岡松之丞さんが下さった劇中で使用された八ツ橋から繁山栄之丞へ宛てた手紙のことを思い出す

とまあ古典の世界は果てしなく広がっていくものだ
さて、肝心の能「井筒」だが冒頭に観世喜正氏が「井筒」は上級者向けよと「注意報」を出してくれていたとおり、非常にゆっくりとした、登場人物そのもの動きの乏しい曲だけに、その良さを十分に堪能できるかといわれると正直「難しかった」と言わざるを得ない
詞章そのものは伊勢物語や古今集などに出てくる著名な和歌が随所にちりばめられ、ほぼ正確に伊勢物語第23段「筒井づつ」が再現されるので、退屈することはない
あとは決して自分の評価など当てにはならないが、笛の音に澄み渡るような爽快感が感じられなかったのが残念だった
トータルとしては「井筒」という曲を楽しんだというよりは、山中先生のお話から日本の古典芸能の歴史の広がりを改めて実感した、というのが正直なところだった
いずれにしてもせっかく山中先生の熱心な解説を伺ったので、今度は杜若をぜひ観てみたいものだ
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