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友人の勧めで文楽を観たことがきっかけで伝統芸能に目覚めました。歌舞伎や能もよく観ます。とりわけ三味線の魅力にとりつかれ長唄を習い始めました。

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能 「安宅」

先日大阪で観た鬼一法眼三略巻、「播州書写山の段」の中で、鬼若(後の弁慶)の秘めたる利発さと、音吐朗々たる弁舌の片鱗を目撃したばかりであるが、ご縁あって程なくその弁慶が弁を振るう能 「安宅」を観る機会を得た

安宅をベースにした「勧進帳」は歌舞伎の演目の中でも最も頻繁に上演される狂言のひとつであろう

能舞台をあしらった松羽目物の最たるものだが、筆者にとっては十挺十枚にもならんとする長唄連中+囃子連中の豪華な演奏も大いなる楽しみである

この「勧進帳」のもとである「安宅」を是非観たいと思いながらも、10月の浅見真州による上演はチケットが瞬間蒸発、ヤフオクでもしつこく張っていたが、結局見逃してしまった

それをひょんなことから今回観ることを得た結果、謡本が手元にないので細かい詞章は分からないが、歌舞伎は極めて忠実に能の内容を再現しているということがよく分かった

舞台の大きな歌舞伎では判官義経の同行山伏は弁慶を入れても5人に過ぎないのに、狭い能舞台にもかかわらずその数10人ものツレが登場するのには正直驚いた

一方、関守の富樫の手下は1人、歌舞伎では4人だ

10人対1人では強力(ごうりき)に化けている義経を弁慶が打ち据えるまでもなく、富樫側はせっかく変装を見破ったにもかかわらず、一行を通さざるを得ないのは当然と言えば当然か

しかし、その後で酒を持って一行を追いかけてくるところをみると、富樫はやはり義経主従の結束に敬意を表して意図的に見逃したということか

歌舞伎では見られない演出としてのアイの役割があるが、ここでは野村萬斎のキレのある動きと割舌爽やかな大音声(だいおんじょう)が際立っていた

筆者は現在能としての具象性の強い「安宅」という出し物であれば、歌舞伎の勧進帳の方が優れた舞台芸術であると思わざるを得ない

吉右衛門の弁慶 菊五郎の富樫 里長の唄 栄津三郎の三味線  自分にとってはこれに勝る「安宅」はない

なにはともあれ、一度を見てみたかった「安宅」の舞台をみることができたことに大満足!!

(このたびの「安宅」は宝生流の某門下の方々の舞台を拝見した。その舞台にアイとして萬斎や大鼓の亀井広忠らが出演していたものである。)
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能 「生田敦盛」 - 賀茂明神から神戸「生田の森」へ

敦盛を討った熊谷次郎直実はそのことをきっかけに浄土宗開祖たる法然上人に教えを請い、出家し蓮生と名乗った

この蓮生と敦盛の霊が出会うのが能「敦盛」であるが、「生田敦盛」でその法然が若くして戦死した敦盛の子供を拾って育てるところから話が始まる それほど敦盛の話と法然とは縁がある

さて、子供が法然に拾われたのは一乗寺下り松の下と言われるが、これがその松なのか・・・。

IMG_1701_一乗寺下がり松_small
<宮本武蔵が決闘した場所としても有名 当時の松は近所の八大神社にあるとのこと>

拾われた子は後にひょんなことから敦盛の忘れ形見だと知れる。 そしてその子は亡き父に会いたい一心で「賀茂明神」に願をかける

ここでの「賀茂明神」とは上賀茂(賀茂別雷神社)のことなのか、下鴨神社(賀茂御祖神社)のことなのかよく分からないが、法然に縁の黒谷に近いのは下鴨神社だ

IMG_1662_上賀茂神社_small
<上賀茂神社>

IMG_1665_上賀茂神社_small
<境内を流れる清らかな水と萩の花>

広大な「糺の森(ただすのもり)」と立派な境内を見るとなんとなく下鴨神社に願を掛けたような気がしてくる・・・

IMG_1708_下鴨神社_small
<長い長い糺の森を貫く参道を抜けると下鴨神社だ>

すると賀茂明神が敦盛の子の夢に現れ、父が戦死した一の谷に近い「生田の森」に行くように告げる

実際には一の谷から生田神社までは相当な距離があるが、生田の森には平家方の陣があったようで、陣中の父に会いにい行ったのであろう

IMG_1846_生田神社_small IMG_1832_生田神社_small
<神戸三宮駅のすぐ北側にある生田神社。 このすぐ後ろに生田の森がある>

生田神社は縁結びの神様としても知られ、この日も結婚式が行われていた

IMG_1836_生田の森_small IMG_1844_生田の森_small
<ここで敦盛の子は父の霊と暫しの間親子の情愛を交わす>

P1020972_敦盛萩 P1020969_敦盛萩
<生田神社の境内にある「敦盛の萩」>

「青葉の笛」の須磨寺のところでも触れたが、兵庫県、特に、神戸から明石にかけては源氏物語や平家物語など江戸時代よりも遥か昔の日本人の心のふるさとが沢山ある

自分がハマッている文楽、歌舞伎、長唄などは正に「江戸文化」であり、今東京では江戸時代の文化や街並みを辿るのがひとつの流行だ。 NHKの「ブラタモリ」や相次ぐ浮世絵展などが大いに人気を博しているのもそうした背景がある

しかし、そうした文化を知れば知るほど「江戸時代」はついこの前のこと、 自分のこれまでの人生を振り返っても、半世紀ぐらいはあっという間の出来事

「え、それって昭和の唄ですか?」 若い子に遠い目をして言われて愕然とするが、それぐらい月日がたつのは速いものだ

そんな中で三百や四百年ぐらいの時間はそれこそ「邯鄲の夢」のごとく、瞬きする間のことではないか

時代が古くなればなるほど史実かどうか怪しくなってくるのも事実だが、それでも、千年の時を越えて今日まで伝わる様々な物語はそれだけでも古典としての値打ちがあると思う

兵庫には江戸時代には既に古典として人口に広く膾炙した「日本人の心のふるさと」、「本当の歴史」が数多く残されている

能 「松風」 と 須磨 「松風村雨堂」

長唄舞踊「汐汲」のもとになった能「松風」を観た

国立能楽堂10月_small

10月公演のプログラムにある井上愛氏の解説によれば「松風」はもともと田楽の亀阿弥(きあみ)作曲の「汐汲」を観阿弥・世阿弥が改作したもので、原曲名は「松風村雨」とあり、元はちゃんと姉妹両方の名前が題名になっていたようだ

国立能楽堂10月_解説_small

上の10月主催公演のチラシの裏にも簡単なあらすじが出ているが、伊勢物語の主人公に擬せられる在原業平の兄である行平が、須磨に詫び住まいしていた折に寵愛した松風と村雨という海士の姉妹の話で、都に去った行平が

「立ち別れ いなばの山の 峰に生うる 松(待つ)としきかば 今帰り来ん」

と詠んだにも拘らず、終に帰らぬ人となってしまったことを嘆きながら、それでも忘れられない恋慕の思いを語り舞うという曲だ

シテの松風とツレの村雨の美しい姉妹がそれぞれに行平の思い出を語るところの詞章が美しく、シテ・ツレが一緒に謡うところがとても「上手(平板な表現だが)」でうっとりさせられる

また、二人は薄いベージュの水衣(作業着)を着て、扇で汐を桶に汲み入れたり、その桶を汐汲車に乗せて曳くところやそれらの桶に月が映りこむさまを愛でる所作が美しい

そして思い出を語ってるうちに、松風の方がつのる想いを抑えきれずに、舞台におかれた松の作り物が「行平」だと言い張ってそれに寄り添おうとするのを妹の村雨が止めるシーンや、松風が行平形見の烏帽子や狩衣を抱きしめ、ついにはそれを着て恋慕の舞を舞いながら、その松を両手を大きく広げて抱きかかえるようにするさまは感動的であり哀れを誘う

都人からは「隅(すみ=すま)」として、遠く離れた荒れ果てた鄙の地と思われていた須磨の地に流離した貴人が、現地の女性らと交わり、そして別離するという話は源氏物語における光源氏と「明石の上」との情交の物語を背後に踏まえていると、前出の井上愛氏は説明しておられるが、まさしくそうであろう

より後世の長唄・常磐津舞踊としての「汐汲」はもっと華やかで美しく脚色してあるが、それが下敷きとした本曲や、されにそれが取材した和歌の世界や源氏物語にまで思いを馳せると、さらにその味わいが深くなる

さて、先日、敦盛の青葉の笛を求めて須磨寺を訪ねた際に、近くの「松風村雨堂」に立ち寄った

IMG_1870_松風村雨堂_small IMG_1882_松風村雨堂歌碑_small
<右は「立ち別れ ・・松とし聞かば 今帰り来ん」の歌碑>

IMG_1877_松風村雨堂_small IMG_1868_松風堂周辺の道_small

姉妹は実在ではないとされるので、松風村雨堂や形見の衣をかけた松の木の真偽のほどは分からない

しかし右の写真のように 周辺は見てのとおりの松並木が美しい坂

これを下りていくと須磨浦に出て、明石海峡を隔ててすぐ目の前に淡路島を望む風光明媚な土地柄だ

辺鄙なところと思われていた一方で風雅を愛する都人にとってはさぞや詩興をそそられる美しい土地であったことだろう


能 「生田敦盛」 狂言 「墨塗」@国立能楽堂

国立能楽堂の普及公演で能「生田敦盛」と狂言「墨塗」を観た (深谷での「敦盛」よりも先に「生田」の方を先に観ることとなった)
2011_09_国立能楽堂_1

平家物語の章段には名のある平氏の武将の最後を描いたものが多数あるが、そのひとつに「敦盛最期」(巻第九)がある

一ノ谷の合戦で敗色濃厚となった平家の若武者、笛の名手としても知られた美男の公達、平敦盛の首を、源氏の武将である熊谷次郎直実が逡巡の果てに取るという場面だ

この章段を題材にした能としては「敦盛」が有名だが、その敦盛に実は子供があり、その子供が一ノ谷の合戦で戦死した父の亡霊に、賀茂明神の霊験により生田の森(兵庫県神戸市)で出会うという話が「生田敦盛」だ

(あらすじは下の国立能楽堂のちらしの裏面参照。またこちらのページにも詳しい解説がある)

 2011_09_国立能楽堂_2

冒頭で能に造詣が深く「能の歳時記」などの著書のある、詩人の村瀬和子さんによる曲目解説があった

(村瀬さんの写真や別の場での講演の様子などはこちらのページをご覧下さい)

まずはこのお話がとてもよかった

お着物姿で舞台に立たれた村瀬さんは、とても穏やかで品格のある語り口で「敦盛」や「生田敦盛」にまつわるお話をして下さったが、中でも今でも多くの地域で「敦盛さま」という、半ば「敦盛信仰」のようなものがあるというお話はとても興味深かった

その代表例は広島県のある地方では田植えの時に歌われる「田唄」の中に、敦盛やその奥方(実際には敦盛は妻帯していなかった、つまり十代半ばで戦死した敦盛は結婚していなかった)のことを美しく唄ったものが存在していたということだ

現在では残念ながら「田唄」そのもは伝わっておらず、代わりに民謡となって僅かにその片鱗をとどめるものがやはり広島にあり、村瀬さんの解説の途中でそのCDが見所に向けて演奏された

敦盛を討った熊谷直実が法然に帰依して出家したり、敦盛の架空の子供が法然に拾われたりと、何かと敦盛が浄土宗とかかわりが深いことも、敦盛信仰が生まれた要因のひとつではないだろうか

能は子方と敦盛の霊の再会が哀れを誘い、印象深い

さらに「敦盛」と同じくシテは中ノ舞を舞うが、敦盛では一の谷の合戦前夜の宴を懐かしんで舞うのに対して、生田では親子の再会を喜んで舞うことになる

しかし直ぐに閻魔大王から「一瞬、現世に戻ることを許しはしたが、何をぐずぐずしている!」と修羅の道へと再び呼び戻されてしまう

そして、再会を喜ぶのも束の間、親子は再び静かに別れることになる

そんな親子の情と栄華の果てに滅んでいった平家の若き公達の無念とが交錯する、なんとも言えない無常観を感じさせる曲であった

一方、狂言の「墨塗」は大名の愛人が、彼女を残して領国に帰ろうとする男に対して、用意の水を目につけてウソ泣きをして困らせるのだが、太郎冠者の機転でその水を墨に摩り替えると・・・

最期は女も大名も墨で顔を真っ黒にしながら大騒ぎしながら走り去っていく、抱腹絶倒のお話だ

狂言でここまで本当に笑えたのはこれが初めてだったかもしれない

ちなみ、顔に墨を塗るのは「魔よけ」の意味があるとされ、この狂言もそういった意味が込められているものと考えられる、との説明が、先ほどの村瀬さんからあった

近々、神戸の一の谷、鵯越、生田神社などを訪ねてみるつもりだ

こういうのを「謡蹟巡り」と言うらしいが、文楽や歌舞伎などの演目ゆかりの土地を訪ねるのも楽しいものだ

能 「敦盛」@深谷!

深谷市民文化会館で行われた観世流小島英明をシテとする「敦盛」を観た

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<観世喜正の「のうのう能」繋がりで、電車を乗り継いで遥々深谷まで出張りました!>

会場は通常の能舞台ではなく、ローカル自治体の「市民会館」の「小ホール」。板張りの舞台の上に小島が自分の車に積んでもってきたという、何故かグレーのカーペットが3mぐらいの橋懸りと本舞台にに当たる場所に敷いてある

そして60センチほどの高さの「角材」が目付柱とワキ柱の位置に立っている、それだけの拵えだ
背景は体育館の舞台の背景によく掛かっているような真っ黒な幕があるだけで、老松も竹も揚幕も何にもない
しかもカーペットの端が少し波打っていてあまりピシッとキマッていない

これだけ見たときは「しまった!こんなとこまでわざわざ来るんじゃなかった」とちょっと後悔

しかし、実際に始まってみると、小島による丁寧な能の歴史や演目の解説、謡のミニレッスン、囃子方によるそれぞれの楽器の説明と実演に続き、観世善正も登場して例の能装束の着付けの実演解説と充実した前フリだった

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<写真のような立派なテキストまで付いていた(謡本はもちろん別売り2000円也!>

なぜこうまでして敦盛を観たかったのか!?

平家物語の「敦盛最期」の章段が儚く美しいから、それを幽玄な能にしたらどうなるのか、それを観たかった

シテの敦盛もさることながら、ワキの熊谷次郎直実は一の谷で敦盛の首をとった当の本人
敦盛の霊が熊谷とどう向き合うのか、そして、熊谷がどう敦盛の霊を慰めるのか、それが観たかった

能「敦盛」が後世の人形浄瑠璃や歌舞伎にどういう影響を与えたのか、それを知りたかった

そしてそれは平家物語などの鎌倉・平安時代以前から日本人が育んできた美意識や人生観が、能、文楽、歌舞伎などの現代に繋がる芸能の中に連綿と受け継がれてきており、それが今なお人々の心を打つことに深い感慨を抱くからだ

だからそれらの古典の継承の中間点にある「能」がいかなるものであるか、観てみたくてしょうがないのだ

また、この敦盛もそうだが、先週国立能楽堂で見た「生田敦盛」もやはり浄土宗の開祖、法然上人に非常に関係が深い
敦盛を討ったことがきっかけで熊谷直実は法然上人に出家して「蓮生(れんせい、或いは、れんしょう)法師」となり、法然に帰依する

また生田敦盛でも敦盛の子供は法然に拾われ、後に生田の森で父、敦盛の霊に再会するのである

法然、親鸞とつづく浄土宗の流れを知ることも、現代につながる日本人の精神風土を探る上でも重要な研究課題だと思っている

さて、肝心の舞台だが、冒頭に書いたような急ごしらえの舞台ではあったが、シテとワキの関係が分かりやすく、しかも、草刈男が3人も出てきて動きがあり、アイの解説も懇切丁寧で、非常に分かり易い曲であることに加え、前段で隅々まで解説してもらっていたので、とても入って行き易い演能であった

敦盛の霊の装束も片(肩?)脱ぎになっているので、中に着ている着物(厚板)と外の羽織もの(長絹)の色合い、模様の対比が美しかった

長身の小島の中之舞の前段では平家の公達の優雅なものから、突如、一の谷の合戦の鬼気迫るものへの変わるところ、そして最期、蓮生法師に回向を頼むと、刀を投げ捨てて去っていく、その序破急の妙が印象深かった

囃子連中はやや若さが目立ち、「枯れた」味がなかったのが残念だが、地謡の通奏低音的な響きはとても良かった

トータルとしてみればこれまでに観た能の中では一番積極的に楽しむことができた曲、演能であったと思う

さて、ここで少し深谷のことを紹介しよう。JR深谷駅はなんと↓こんなに立派な駅舎を構えている!!

深谷駅1_small

そして、会場となった深谷文化会館は深谷城址公園のすぐ裏手にある(ほぼ一体となっている)

深谷城址_small 深谷市民文化会館_small

深谷の少し手前が蓮生法師、つまり、熊谷直実の生まれた「熊谷」であり、駅前には直実の騎馬像があるそうな

そして、10月8日からはいよいよシネマ歌舞伎で中村吉右衛門の「熊谷陣屋」が始まるよ~!

とにかく、遥々と深谷まで片道1時間半かけて行った甲斐を大いにあり、大満足の半日だった!!

(冒頭の小島による解説には、テキストにはないたくさんの話があったので、で以下備忘のために書き留める)

- 江戸幕府によって武家の式楽と定められた「猿楽(能楽)」は大いに栄えたが、明治維新によって武家社会が崩壊すると共に衰退した

- 岩倉具視は新政府使節団として欧米を視察した際に、列強各国が自国の文化の保護政策をとっていることに感銘を受け、帰国後方々に散らばっていた能楽師を集めて展覧能を催して、能楽の再興と保護を図った

- ちなみにこの使節団には深谷市出身の澁澤栄一翁も参加したとのこと

- 能は能面、文楽は人形、歌舞伎は化粧によって生身の人間をさらさないで舞台に上がる

- 幸若舞は現在ではほとんど衰退してしまっているが、信長が舞ったとされる「敦盛」は能の仕舞ではなく本当は幸若舞であった。現在では8曲程度が九州に伝わるがその中に敦盛は含まれない。しかし、2008年に幸若舞の敦盛が復元された

- 幸若舞が廃れた理由のひとつは、それが一子相伝を旨としたからとのこと

- 能管の中にはノドと言われるもうひとつの竹の筒が入っていて、それが西洋音階にはない独特の音階を作り出している

- 大鼓の皮は使用前に2時間ほど乾燥させたりするので、10数回使うとダメになる

- 雛飾りの五人囃子は左から太鼓、大鼓、小鼓、笛、そして扇を持った能楽師の順にならんでいる これは能舞台上の囃子の並び方と一致

- 敦盛が持っていたとされる笛は「小枝」とされるが、これを観世流では「さえだ」と読み、宝生と金春では「こえだ」と読む
ちなみに森永製菓の「小枝」も観世流の小島は「さえだ、下さい」と言って買うそうだ(笑)

- 一方、能「敦盛」では最初に草刈男が出てきて笛を吹くために「青葉の笛」と呼ばれている。従って、須磨寺に伝わるのは青葉の笛と呼ばれている

- 観世喜之が澁澤翁の末裔とつながりがあったが故、深谷で代々お能のお稽古が開かれてきていた

- そして喜之の弟子である小島英明が深谷での縁をつなぐことになった

- 小島英明の妻は斎藤別当実盛の末裔とのこと。斎藤実盛は源義賢の子、駒王丸を逃がした。駒王丸は後の木曾義仲。
実盛はその後、平家に仕えたため、最期は義仲勢に討たれてしまう

- 武士がつける烏帽子は、向かって左に折れているのは平家、右に折れているのは源氏だそうな

それにしてもいろいろ勉強になった。Suicaを使って、グリーン車に乗る方法も学んだし!

最期に小島英明はなかなか好感の持てるいい男だ。話し方に屈託がなく飾らない素な感じがとても気に入った。
これからも機会があれば彼の舞台を観てみたいものだ

能 「葵上」@矢来能楽堂

矢来の能楽堂で定期的に開かれている「のうのう能」(Know-Noh)の第26回公演で「葵上」を観た

矢来能楽堂

観世喜正による演目の解説に続いて、舞台の上でシテの能装束の着付けの様子まで見ることができる。

その後いよいよ シテ(六条御息所) 古川 充 による「葵上」が始まった

葵上

もともと自分が能を見る目的は文楽や歌舞伎という江戸時代に開花した伝統舞台芸能のルーツを探ることにある

さらには「能」という芸能自体が、古くは奈良時代の「記紀」に始まり、「伊勢物語」「源氏物語」「平家物語」など、既にその時点で人々の間で「古典の名作」として広く膾炙していた物語から題材の多くを得ていたということに、日本文化の連綿たる継承の奥の深さを感じるのである

曲目の良し悪し、演能自体の出来不出来についてはまだよく分からないことが多いが、「葵上」はワキ、ツレなど登場人物も多く、テンポもいい。しかもストーリーはオリジナルの源氏物語の葵の帖にほぼ忠実だから分かり易い

その意味ではとっつき易い曲目には違いないが、このたびの舞台はどうだったのだろうか・・。

まず囃子方の大鼓の掛け声がガラガラ。鼓の音も粗野だ。笛も期待される清明な響きに欠けたような気がする

長唄の演奏会、歌舞伎舞踊の伴奏、あるいは黒御簾音楽における囃子の大切さ、そこだけは最近少し分別がついてきた

それだけに、具体的な演出や音曲を取り入れない能の舞台において、囃子のもつ意味は歌舞伎や長唄などにおけるものより遥かに重要な要素ではないだろうか

ワキの横川の小聖も「何が」というのはよく分からないが、御息所の生霊たるシテに向かうには、余りにも「生臭い」所作が全体の幽玄さを少なからず減じてしまっていたような気がした

ところで、今回ののうのう能での一番の収穫は観世喜正による「謡い」のワンポイントお稽古だった

葵上2
<装束の解説も丁寧だ>

ツレ 「思い知らずや」 シテ 「思い知れ」 上歌地謡 「恨めしの心や・・・ 水暗き澤べの蛍の影よりも光る君と契らん」
のほんの短い部分だが、喜正がそれまで使っていたマイクをオフにして本来の地声でお手本を謡う。その声を聴いただけで、圧倒的声量と節付け(?)の見事さに聞きほれる

その後、見所の観客が喜正に続いて声を出す。最初は皆、遠慮がちだったたが最後はいい声が出ていた

自分も初めての謡いの体験に最初は戸惑ったが、声を出してみるうちに「あ、この発声や節付けは長唄に繋がるものがある!」と(勝手に)直感した。そう思った瞬間、もっとしっかり姿勢を正して声を出してみた

するとどうだろう、とてもすがすがしいよい気持ちになった。詞章そのものは恨み節だが、喜正の節つけを真似て謡ってみると本当に気持ちのよいものだった

いつか謡曲も習ってみたいと思える体験が出来ただけでも、今回ののうのう能は本当にいい体験だった



能 「井筒」 @宝生能楽堂

水道橋にある宝生能楽堂で「井筒」を見た

シテ 武田志房 ワキ 福王和幸 アイ 高澤祐介
小鼓 幸清次郎 大鼓 亀井広忠 笛 一噌隆之 地謡 観世喜正他

宝生能楽堂は初めてだったがとても広々としていて全体に余裕のある造りの能舞台が美しい
矢来能楽堂のイメージがあったので快適な空間に驚いた

もちろん矢来の雰囲気も大好きなのだが、ゆったりとした宝生もなかなかいいかなと

宝生能楽堂

今回は観世喜正が主宰する「のうのう能(Know-Noh)」のちょっと上級版(と、喜正氏自身が説明していた)の「のうのう能+」の公演として行われた

最初に法政大学能楽研究所の所長になられた山中玲子教授が「井筒」について概ね30分程度に亘って説明して下さった

曰く・・・

能の曲には源氏物語を題材にしたいわゆる「源氏能」という分野があるが、一方で伊勢能(という用語なないが)とも呼ぶべき伊勢物語に取材した曲がいくつか存在する。「井筒」はもちろん有名な「杜若」や「小塩」、「隅田川」、「雲林院」、狂言「業平餅」などがそれに当たる

時代的には伊勢の方が早く、世阿弥の父、観阿弥の時代から既に存在していたが、源氏能は世阿弥の娘婿、金春禅竹の時代にできたものが多い

『伊勢能』は実は伊勢物語のそものではなくて、その「解説本」に取材されたものである

源氏能ではシテはワキの僧に成仏しきれないでいる自分の霊を弔って欲しい、的なニュアンスがあるが、伊勢能ではシテは業平との思い出や執着を切々と吐露するものの、決してそれを救って欲しい、あるいは、弔ってくれてありがとう、的なワキとのコミュニケーションはない

こうした中にあって「井筒」は世阿弥自身が最高の出来、つまり「上花」と自賛する自信作

それは単に伊勢物語の裏に隠された秘話を披露するにとどまらず、業平への並々ならぬ思いと、激しい嫉妬心すら超越し、ひたすらに待ち続けることのできる女心の内省を伝えることに成功した作品だからだ、と山中先生は締めくくられた

先生は自分とほぼ同世代で 「ああ、この人は本当に日本の古典文学や芸能のことが好きで、熱心に研究してるんだな」という感じがひしひしと伝わってくる語り口でとても好感が持てた

また先生が触れられた「杜若」は伊勢物語のいわゆる「東くだり」あるいは「八橋」と称される第9段に取材された作品であるが、カキツバタと言えば、つい先日青山の根津美術館で観た光琳の「燕子花図屏風」や同じく「八ツ橋図屏風」(メトロポリタン)を思い出し、

さらには歌舞伎「籠釣瓶花街酔醒(かごつるべさとのえいざめ)」に登場する花魁「八ツ橋」を思い出す

花魁の八ツ橋を思い出すと今度は歌舞伎役者、片岡松之丞さんが下さった劇中で使用された八ツ橋から繁山栄之丞へ宛てた手紙のことを思い出す

P1020897_small.jpg

とまあ古典の世界は果てしなく広がっていくものだ

さて、肝心の能「井筒」だが冒頭に観世喜正氏が「井筒」は上級者向けよと「注意報」を出してくれていたとおり、非常にゆっくりとした、登場人物そのもの動きの乏しい曲だけに、その良さを十分に堪能できるかといわれると正直「難しかった」と言わざるを得ない

詞章そのものは伊勢物語や古今集などに出てくる著名な和歌が随所にちりばめられ、ほぼ正確に伊勢物語第23段「筒井づつ」が再現されるので、退屈することはない

あとは決して自分の評価など当てにはならないが、笛の音に澄み渡るような爽快感が感じられなかったのが残念だった

トータルとしては「井筒」という曲を楽しんだというよりは、山中先生のお話から日本の古典芸能の歴史の広がりを改めて実感した、というのが正直なところだった

いずれにしてもせっかく山中先生の熱心な解説を伺ったので、今度は杜若をぜひ観てみたいものだ



大山神社の能舞台と「小鍛冶」



拙ブログのタイトル・バックは大山阿夫利(あぶり:雨降り)神社にある能舞台である。ここでは毎年9月の中旬に「火祭り薪能」が行われる。この夜の写真は昨年9月の演能直後に撮ったものである。昼間の写真でも分かるとおりこの舞台は緑濃い大山の森を背景に鯉が泳ぐ池の上に作られた堂々たるものである。通常能舞台の背景に描かれるはずの老松がここでは本当の松だというのも面白い(夜の写真の方がよく分かる)

 一昨年は「雨降り神社」を地で行く大雨であったにもかかわらず、カッパを着込んで「小鍛冶」を観た。夕闇の中、山深い能舞台に三条宗近の相槌となるべく、稲荷明神が狐の姿となって現れるのはそれだけで神秘的な光景であった。小鍛冶は筋自体が分かり易い上に、謡も舞もリズミカルで小生のような者でも退屈せずに楽しめる曲である。作者などは不明らいしが後には浄瑠璃や歌舞伎にも移されており、長唄の入門曲のひとつにもなっている。小生も練習曲のひとつとして教わったことがある。それだけに「小鍛冶」は思い入れのある曲なのだが、悔やまれるのは今春、大阪国立文楽劇場でかかった文楽の小鍛冶を見逃したことである。なんとか東京で再演してもらいたいものだ。

⇒ 大山神社は現在の神奈川県伊勢原市にある。大山参りは江戸時代には大体二泊三日で行ってこれるちょっとした小旅行の対象として庶民の間でたいそう人気があったとのこと。現在の国道246号は以前は大山街道と言ったらしいが、それは江戸からこの大山に通じる道という意味だからだ。ここで一昨年には薪能とは別に坂東三津五郎が、坂東流のお家芸のひとつで大山参りの道中を題材にした「山帰り」という舞踊を奉納した。

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