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友人の勧めで文楽を観たことがきっかけで伝統芸能に目覚めました。歌舞伎や能もよく観ます。とりわけ三味線の魅力にとりつかれ長唄を習い始めました。

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大阪 「四天王寺」 と 文楽 「合邦」続報

南座での歌舞伎見物のついでに、先日の英大夫と鶴澤清介による名演奏「合邦(がっぽう)」ゆかりの地を駆け足で訪ねた

⇒ 合邦に関するオリジナル記事はこちら

大阪の国立文楽劇場のある日本橋から南東に少し下ったところに聖徳太子が建立した「四天王寺」がある

現在の伽藍は比較的新しいもので、建物自体にそれほどの文化財的な価値はなさそうだが、それでも奈良の法隆寺とならんで日本最古の寺院のひとつだ

さて、この四天王寺の西大門の更に西にこの「石鳥居(いしのとりい)」がある

鳥居の外側から東側に向かって撮った写真がこれだ。 西大門とその背後に境内の五重塔が見える

IMG_1964_四天王寺石鳥居_small

そして今度は鳥居の東側、西大門の側から見たのがこの景色だ

IMG_1962_四天王寺西大門石鳥居_small

秋の午後なので既に太陽は西に傾き、逆光で写りは決してよくないが、鳥居の真西にはビルがないことが分かるだろうか

実は鳥居の向こうは「逢坂」と言って、かなり急な勾配で海に向かって下っていくのだ

海と言っても現在の海ではなく、遠い昔は四天王寺のすぐ向こうは難波の海で、外国からの賓客などは最初に四天王寺に赴いたりしたらしい

IMG_1966_逢坂_small
<逢坂を下ったところの閻魔堂の辺りから坂の上の四天王寺を望む(よく見ると五重塔が見える)>

文楽「合邦」の下敷きになった能「弱法師」で目の見えなくなった俊徳丸が四天王寺の西門から心の目に映る難波の海に広がる淡路や須磨明石の情景を懐かしく述懐する

昔からこの四天王寺の西門、石鳥居は西方浄土の東門と表裏一体と考えられていた。 だから俊徳丸が拝んでいるのは難波の景色であると同時に西方浄土であったのだ

今でも鳥居から夕日を拝み、西方浄土への想いを馳せる人が多いと聞く

IMG_1963_石鳥居解説_small
<石鳥居と「日想観」の習慣についての解説が丁寧に記されている>

さて、この逢坂を下りたところに合邦の館があったとされる「合邦が辻」があり、家の外にあったとされる閻魔堂がこれだ

IMG_1968_閻魔堂_small

松竹の歌舞伎美人の記事によると、その脇の階段を下りたところが「合邦が辻」だというのだが・・・。

IMG_1971_合邦辻_small
<確かに階段はあるが「辻」らしきものは分からなかった>

ちなみに今、五木寛之の「親鸞」を読んでいるが「範宴(親鸞の修行僧としての名)」が奈良に向かう途中で四天王寺の話が出てくる

彼は聖徳太子に深く帰依するところがあり、太子が建立した四天王寺のことが語られるのだ

そして、範宴は奈良の二上山から観た夕日の美しさに、衆生が憧れる浄土の存在を感じたのであった

四天王寺からの夕日、二上山の夕日、まだどちらも見たことはないが、確かに四天王寺の石鳥居からは素晴らしい夕日が見られそうな気がした
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敦盛 「青葉の笛」 - 神戸「須磨寺」

平家物語の「敦盛最期」に取材した能には「敦盛」や「生田敦盛」がある

今回は「敦盛」に登場する「青葉の笛」(つまり「小枝(さえだ)」)があるという神戸の須磨寺を訪ねた

IMG_1847_須磨寺本堂_small
<本堂>

寺は一の谷の古戦場がある須磨浦公園の北西にある広大な寺領を擁する立派なお寺で、境内には敦盛首塚や敦盛縁の品々を展示する宝物館がある。 また、写真の本堂に向かって右側の護摩堂は日本最古の「会社」として有名な「金剛組」の施工による増改築工事の真っ最中であった

IMG_1848_須磨寺金剛組_small

さて、宝物館には一の谷合戦を再現した動くジオラマや甲冑などが数多く展示されている

P1020980_敦盛

こちらは「小枝」を陣地に取りに戻ったために遅れた敦盛が、先に出た味方の船を目指して、馬で海に入ったところを背後から熊谷次郎直実が呼止めたシーン

そして右側が敦盛が所持したとされる「青葉の笛」つまり「小枝」とのことである。 変色していて分かりにくいが、ケースの中に縦に二本の笛が収められている。その右側の太いのが「青葉の笛」

IMG_1857_須磨寺青葉の笛_small

さらに境内にはこのような再現シーンも

IMG_1860_敦盛実盛_small

今回は時間がなくて行けなかったが、子供の頃よく遊びに行った須磨浦公園には一の谷の古戦場跡や敦盛塚などがある ⇒ 須磨浦公園の様子はこちらのページから

上のページからひとつだけ写真を拝借させていただくと・・・

摂津名勝図絵_small
<摂津名所図絵に見るかつての須磨浦一帯の様子>

図絵をよく見ると合戦の舞台となった一の谷以外に二の谷、三の谷があることがわかる

今でこそ水際を国道2号線やJR・私鉄が風景を分断してはいるが、公園から海を隔てて淡路島を望む景色は往時を思い起こすに十分な風情だ

近々、小さい頃の思い出もたくさんある須磨浦公園も訪ねてみるつもりでいる

ちななみに須磨寺近くには能「松風」に縁の「松風村雨堂」がある。 それに関する記事はこちらから

京都 「妙満寺」 道成寺の鐘を追って

洛北の妙満寺を訪ねた

IMG_1727_妙満寺_small IMG_1731_妙満寺_small

室町時代の開創で天正11年(1583年)から昭和までは寺町二条にあったが、昭和43年に現在の左京区岩倉に移ってきた日蓮宗妙満寺派の本山だ

筆者がわざわざこの妙満寺を訪れたのは何故か?

下の左の写真は今年5月に訪ねた紀州「道成寺」の二代目の鐘楼跡だ

二代目鐘楼跡_small

初代の鐘楼は蛇に姿を変えた清姫が安珍もろとも焼き尽くしてしまい、その400年後に鋳造された二代目は能や歌舞伎の道成寺物によれば、今度は清姫の霊である白拍子「花子」に奪われてしまったことになっているが・・・

鐘楼跡に立つ高札をよく読むと・・・・

二代目鐘楼跡解説_small

なんと二代目の鐘は京都の妙満寺という寺にあると書いてあるではないか!

こうなると長唄の名曲中の名曲とされる「京鹿子娘道成寺」や玉三郎、菊之助による艶やかな舞踊「娘二人道成寺」に魅せらて、遥々道成寺を訪ねた筆者としては、なんとしてもこの鐘の在り処を確かめなければ気が済まなかった

その日直前に訪れた「北野天満宮」に長居してしまったため、妙満寺への到着が5時になってしまった。すると折しも「入相の鐘(いりあいのかね)」が鳴り始めた

IMG_1728_妙満寺鐘楼_small

すわ、これこそが道成寺の鐘と決めつけ、ジッと撞木を握る修行僧を見つめていたが、撞き終わった彼に聞くと、今撞いていたのは本来の妙満寺の鐘とのこと

ちょっとがっかりしたが、ミーハーを承知で、じゃあ「道成寺の鐘はいったいどこに?」と彼に詰め寄った

すると「あ、それなら「方丈」内に展示してありますが、もう今日は五時を回ったので閉館しました」とのこと

しまった、勘違いして鐘が鳴り終わるのを見てるうちに閉館してしまったのだ・・・

でもそんなことで諦められる道理はない

翌日、予定を変更して、大原三千院に向う前に再び妙満寺を訪れ(殆ど妄執の世界)、清姫の霊が呪い落とした鐘を遂に見ることができた

IMG_1746_妙満寺道成寺鐘_small IMG_1748_妙満寺道成寺鐘_small

まあ、ご覧のとおりかなり小ぶりの鐘で、確かに道成寺の裏山にうち捨てられていたかもしれないが、本当に二代目の鐘として使われるはずのものだったかどうか・・・

まあそんなことはともかく、本当に妙満寺に道成寺の鐘はあった、ということだけで十分だ

さて、この妙満寺には俳句の祖と仰がれる松永貞徳が造営したとされる「雪の庭」と呼ばれる見事な枯山水の庭園がある

IMG_1744_妙満寺雪の庭_small

そして、境内からの比叡山の眺めが素晴らしい

IMG_1752_妙満寺比叡山_small

長唄、能、舞踊の道成寺ものに惹かれて、5月に和歌山まで行った。すると、安珍・清姫の物語を書いた「道成寺縁起絵巻」の現物は東京で開催中の白洲正子展に出品中とのこと。そして、鐘は京都にあるという。

東京に戻って白洲展に行ったら、平等院の雲中供養菩薩に出会い、今回の京都ではまず平等院に。そしてこの妙満寺の鐘も見ることができた

今回の旅は昨年他界した母の菩提を弔う意味もあり、浄土(真)宗、ゆかりの寺を訪ねることもひとつの目的だった

おりから法然の800年大遠忌、親鸞の750年大遠忌にあたるため、東・西本願寺や知恩院はイベント色に染まっていたが、
この妙満寺は日蓮宗系だがこちらも開祖の700年忌に当るそうだ

今月、京都南座では法然を描いた新作歌舞伎もかかっている 10月25日からは国立博物館で法然・親鸞展も開かれる

ほんのちょっと日本の伝統芸能や古典文学に向けただけで、こうもリンクが果てしなく続いていくとは、やはり日本の歴史の深さ、文化の豊かさはタダものではない!

京都 宇治「平等院」&「宇治上神社」

傘寿を超えても矍鑠としている父親と、この秋京都の古刹を巡る旅に出た

と、言うと人からは「それはそれは親孝行な」とお褒めの言葉をいただくが、実のところは歴史に造詣の深い父に、自分の史跡巡りに付き合ってもらったというのが正直なところだ

今回の京都旅行はまず宇治「平等院」からと決めていた

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<鳳凰堂>

京都は何度も訪れているが、、少し離れた宇治には行く機会がなかったということもあるが、それ以上に今年5月に世田谷美術館で開かれた「白洲正子展」で見た「雲中供養菩薩像」の全貌を是非見たいという思いもあった

白洲展で見たのは、全部で52体ある雲中菩薩の内、便宜的に北1号と呼ばれている一体であったが、これがなんとも愛らしい。孫悟空の觔斗雲(きんとうん)のような雲に乗りながら琴に似た楽器を楽しげに弾いている姿が印象的だった

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<北一号 白洲正子展図録から接写>

ぜひ残りの51体も見たいではないか!

平等院は関白藤原頼通によって1052年に創建されたが、写真の鳳凰堂(阿弥陀堂)は翌年の建立である

1052年は釈迦入滅後2000年目に当り、世の中が乱れるとされた末法の世の元年とされていた

摂関家の頂点、藤原氏の大官は末法の世の苦しみを避けて、なんとか極楽浄土へ往生がしたい、だからそれに向けての準備を大急ぎで整えたのであろう

IMG_1355_平等院2_small P1020929_平等院_small

本尊である金色の阿弥陀如来像(国宝)は慈悲にみちたお顔だ。左右の壁の長押の上の白壁に、あの雲中供養菩薩26体が阿弥陀様を取り囲んでいる

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<平等院参拝のしおりから接写>

下の壁(扉)には今でははっきりとは見えにくくなっているが、いわゆる来迎図が様々なパターンで描かれている

いずれも大きな阿弥陀様を中心に大勢の菩薩様が団体旅行よろしく、雲に乗って笛や太鼓の鳴り物入りでまさに今、亡くなろうとする人を空から迎えにくる図だ

当時の人たちは信心することで、念仏を唱えることで、慈悲に満ちた阿弥陀様ご一行に西方浄土へと迎えに来てもらうことを夢見ていたことがよく分かる

平等院の主要な宝物は2001年に完成した鳳翔館に収蔵されている。鳳凰堂の名前の元になった阿弥陀堂の屋根の一対の鳳凰(国宝)も現物は鳳翔館で見ることができる

雲中供養菩薩の残りの26体も鳳翔館で一覧することができるのだ (以下は鳳翔館で買った絵葉書を接写)

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さて、平等院と言えば思い出されるのが平家物語の「橋合戦」

以仁王と源頼政(源三位頼政)が、打倒平家をもくろんで挙兵したのは、平等院の建立から130年ほど後の1180年だ

1167年に平清盛が太政大臣となり「平家にあらずんば人にあらず」という風潮が世を覆っていた

そんな中、鹿ケ谷の陰謀(1177年)が露呈して、俊寛らが南海の孤島、鬼界が島に流される事件から3年後に後白河法皇の三男であった以仁王をかついで、頼政らが立ち上がった

(俊寛だけが流刑を解かれずに島に残される話は巻第三の「足摺」の段。ここから有名な能や歌舞伎の「俊寛」が生まれた)

平家物語の巻第四の「源氏揃え」から、「山門牒状」、「南都牒状」などを経て「橋合戦」「宮御最期」、そして「三井寺(園城寺)炎上」までの各段は以仁王の乱について緊迫した筆致で書き記している

最初、叡山の琵琶湖側の麓の「寺門」派、園城寺たのんだ頼政らであったが、なかなか南都(奈良の興福寺)が牒状に応じて挙兵しないことに業を煮やして、園城寺を出て奈良に向かうことにした

しかし途中、以仁王が何度も落馬する疲労困憊ぶりで、やむなく、途中の平等院に入ることになった

そこへ追いついた平家軍との間での激しい合戦を描いたのが「橋合戦」である

頼政らは宇治川に架かる橋の板をはずしてしまったので、流れの急な宇治川を挟んでしばらくは弓矢の射掛け合いで戦況は膠着していたが、最後には勇猛な平家方の武将が馬で渡河することに成功し戦況は一変、頼政や以仁王は失意の中で不本意な死を遂げるのであった

しかし、この時に発せられた平家打倒の令旨を奉じて全国の源氏が蜂起、後の壇ノ浦での合戦で平家が滅亡するまでの源平の戦いが始まるのであった

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上の写真は平等院の側から宇治川を渡って対岸の宇治神社及び宇治上神社(後述)に参るための橋なのだが、この橋の真っ直ぐ向こうに鳳凰堂の屋根とよくみると鳳凰が見える

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さらに、折からの集中豪雨の余波で宇治川が増水しており、この有様。実際にはちょっと近づくのが怖いほどの激流になっていた。さすがにこの日は特別かもしれないが、かくも水量豊かな宇治川を最後は馬で渡河した平家軍は大したものだ

以仁王の挙兵についてはこちらが詳しい)

ところで、実は今回の京都への小旅行の帰り道に京都側から叡山を越えて、琵琶湖の方に出たので、ふと思い立って三井寺を訪れた

不思議な縁で旅の最初が平等院、そして終わりが三井寺と橋合戦にゆかりのある両寺院をめぐったことになった

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<三井寺は現在でもこの広大な寺域と多くの堂宇を擁する>

平家物語では園城寺(三井寺)から宇治は三里、12キロとあるが、実際にはその倍ほどの距離があるように思う

以仁王が何度も落馬したのは分かるような気がした

ところで、平等院は仏教寺院だがこれを守る「神様」も宇治にはいらっしゃる

知人からは宇治に行ったら平等院だけでなく、宇治川を挟んだ対岸にある「宇治上神社」も世界遺産であり、素晴らしい気の流れるパワースポットであることを聞いたことも平等院への思いを強くしたした理由のひとつであった

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<宇治上神社は平等院とならんで世界遺産である>

境内には宇治の七名水のひとつである桐原水が湧き出ている

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そしてそのような美味しい水で栽培され、淹れられる宇治のお茶が美味しいのは当然とばかりに、宇治神社の参道脇には
「伊右衛門」で知られる京都福寿園の宇治茶工房がある

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とまあ、語り始めたら止まらない、何かと得るところの多かった初めての平等院参拝であった

京都「鞍馬寺」と文楽「鬼一法眼三略巻」

源義経ゆかりの京都「鞍馬寺」を訪ねた

宝ヶ池の宿から車で15分ほど北へ、そして山の中へとわけ入っていく

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仁王門のちょっと先から門徒の手によって運営されるケーブルカーの乗って、鞍馬山中腹の多宝塔まで登ることができる

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このケーブルカー、一口100円の喜捨に対する「お礼」ということで乗車させてもらえる

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写真のような寄付への「お礼」に散華を頂くと、その端っこが乗車券になっている。なんとも素敵ではないか!

多宝塔駅から5分ほど参道を歩き、最後は少し石段を登ると本堂のある境内に着く

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<本殿金堂、神楽舞台>

本尊は毘沙門天、十一面観音、護法魔王尊が三位一体となっているらしいが、いかにもどんな凶事に対しても磐石の備えと言えよう!

平治の乱で平家に敗れた源義朝の忘れ形見、牛若丸は11歳の時にこの寺に預けられ、遮那王(しゃなおう)と名乗った

2005年の大河ドラマ「義経」では、幼い牛若(タッキー、滝沢クン)は稲森いずみの常盤御前に手を引かれてこの石段を登って行った

そして本来は出家して仏門に入ることで生かされたはずの牛若は、伝説によれば鞍馬山の天狗仕込みの武芸を身につけ、奥州藤原氏を頼ってみちのくへと向かう

同じくドラマ「義経」では、牛若は親の仇でありながら、育ての親としての恩愛を感じる清盛に奥州へ向けての出立(脱走?)を告げる

渡哲也演じる清盛が、自らが発願した蓮華王院、つまり三十三間堂で成長した牛若に「自分は平家、お前は源氏だと云うことを忘れるな」と諭す

決して史実ではなかろうが、三十三間堂でのロケは情感溢れる美しいカットだった。そのシーンが忘れられずに今回も再び蓮華王院を訪れた

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<逆光・・・>

さて、鞍馬山とくれば文楽「鬼一法眼三略巻(きいちほうげんさんりゃくのまき)」だ。大阪では来月20年ぶりにかかる!

文楽チラシ2011年11月_small

おととしの9月に東京で見たものの、そのときは「鞍馬山の段」は省かれ、「播州書写山の段」からの上演だっただけに、今回鞍馬山に登った上で観ることができればまた愉しみが増すことだろう

そう、牛若丸と言えば武蔵坊弁慶。「播州書写山の段」では弁慶の生い立ちも語られる。播州にゆかりのある筆者にとって書写山は何度も登ったことのある思い出の山だ

更に三十三間堂と言えばこれまた「三十三間堂棟木由来」が思い出される

これも葛の葉と同じような「異類婚姻譚」の一種で、こともあろうに柳の木の精と人間が夫婦になるという話しだ

清盛が後白河上皇の頭痛を平癒するためにその柳を切り倒し、三十三間堂の棟木としたのだ

どれもこれも史実としては怪しいものばかりだが、かくも豊かな古典の広がりが様々な形で今に伝わる日本文化の豊かさがなんとも愛おしい

京都 「東寺(教王護国寺)」

「空海と密教美術展」に触発されて、京都の教王護国寺、つまり「東寺」を訪れた

(宇治平等院訪問から始まる今回の京都古寺散策についてはいずれ整理するとして、今回は先週の空海展つながりでとりあえず東寺(教王護国寺)の様子だけを速報する)

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パンフレットの表紙は上野に来ていた梵天像(講堂内)だが、もちろんまだ京都にはお戻りではなかった

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写真左は金堂で、中には薬師三尊と十二神将像があるがこの薬師さんがとてもいいお顔をされていた。
右の写真が立体曼荼羅が展開する講堂であるが、21体の仏像のうち8体がまだ上野から戻っておられなかった

にもかかわらず、13体の仏様が曼荼羅の世界を現すがごとく前後左右に座っておられる姿は圧巻であった

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<こちらはお庭がきれいな観智院>

観智院と東寺の間に堀のような池がある。そこに亀と青鷺ののんびりした姿があった

東寺と言えば、巨大な五重塔が有名だが、こちらはおりしも東からの朝日を浴びて、逆光のため写真が撮れなかったので、また別の機会に紹介したい

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