日経新聞、夕刊の記事が気になって珍しく落語を聴いた

上野の鈴本演芸場は初めてだ。 御徒町駅降りてすぐの「広小路亭」には長唄のお師匠さんの演奏会で何度も足を運んだものの、広小路でも落語を聴いたことはなかった。

七月上席(かみせき)の最後の土曜日だったが、その日の仲入り後は林家正蔵の落語、柳家小菊の粋曲、そしてトリが柳亭市馬という充実のラインナップだった。
日経では市馬の「お化け長屋」を褒めていたが、この日は「らくだ」をかけた。 「らくだ」がどんな噺であるかは
Wikiに譲るが、登場自分物の出入りが多く、途中から主人公が酔っ払って本来の人格が徐々に外に現れてきたりするところが難しい真打の大ネタ、というのが定評らしい
確かに市馬の語りを聞いていると、勝手に頭の中で「らくだ」が住んでいる長屋が頭の中に浮かび、その空想のセットの中で、大家だ漬物屋だのの登場人物が明確なイメージを持って登場してくる
考えてみれば舞台装置もなければ立って動き回ることもなく、単に独りで座布団の上に座って、せいぜい小道具といえば扇子があるだけ
それでいて話の情景を描き、登場人物を語り分けながら、笑いを演出しながら最後のオチへと盛り上げていく
これは大変な芸だな、と市馬の話を聴き終わってそう思った
実はその翌週にも鈴本で中席を聞いた。 柳家三三(さんざ)がトリだった。五十前の市馬と四十にもならない三三を比べてはいけないのかもしれないが、こともあろうに三三も「らくだ」をかけた
落語経験が全くない、といっていい小生にとってさえ、衝撃的な違いだった。とても同じネタとは思えないぐらい三三の噺は平板で立体感がなかった。だから、噺の中に入っていけない、引き込まれない
三三には何の罪もないのだが(か、どうかは本当は小生には分からない。つまり、上席で市馬がかけた同じネタをやる、という判断が正しいものなのか、それが分からない)、期せずして、落語の奥の深さと市馬の芸のレベルを実感できたのは貴重な体験だった
さて、もうひとつのお目当て、小菊の小唄だが、これはちょっと期待ハズレ。実は彼女が舞台に出る前のソデに立ったとき、さっと彼女の顔が曇った。「なんだろう?」と思ったら舞台に置いてあった三味線の三の糸(一番細い弦)が切れていたのだ
演奏している最中に糸が切れるのは文楽でもよく見かけるが、弾き始める前に切れるなんていうのは初めてだ。たぶんそれはベテランの小菊にとってもめったに無いことだったに違いない
舞台に出るなり「まあ、なんてことでしょうね・・・」などと言いながら手馴れた仕草で糸を張りなおしたものの、少なくとも3分ぐらいは持ち時間を失った
しかも糸を手際よく張る様子をみた観客は、それだけで大きな拍手。そのせいか、肝心の演奏に対するは拍手がイマイチ。
当の本人もそれには当惑気味で、とうとう最後まで調子が出ないで中途半端な舞台となった
それ以外では二週続けて登場した柳家喜多八の「無気力落語」的な芸風が面白かった
また、三三の出囃子が長唄の「京鹿子娘道成寺」の合方(三味線のソロの部分)がアレンジされていたのに驚いた
最後に噺家の芸の違いやネタの選択がその日の出来に大きな違いとなることも分かったが、二週立て続けに鈴本に通ったお陰で、もうひとつ感じたことがある
それは「客の質」もまた日によって違うということ。落語の芸を高めるためには、聞く側の姿勢と芸を見極める目が不可欠だと
つくづく感じた。